今回は、北陸街道から美濃街道の間にある大野盆地に築かれた城、越前大野城をご紹介したいと思います。
越前大野城がある場所は、現在の福井県大野市にあります。
越前朝倉氏を滅ぼした勢いそのままに越前一向一揆を平定した織田信長さんは国割をおこない、越前大野郡を家臣の金森長近(かなもりながちか)さんと原長頼(はらながより)さんへ分け与えます。
越前大野城は、そのうちの一人の金森長近さんが大野盆地の西部にある亀山に新しい城郭として築いたのがはじまりとされています。
長近さんは当初、朝倉氏の武将朝倉景鏡(あさくらかげあきら)さんが居城としていた戌山城に入ったそうですが、交通の不便さなどから新しく大野城を築く決断をしたといわれています。
この地は、越前の北陸街道上にある北ノ庄から美濃に至る美濃街道を抑える要害の地でもあります。
金森長近さんは、1576年に大野城の築城を開始し、城の東側を城下町として形成していきました。
しかし1582年、京都で主君織田信長さんが討たれる「本能寺の変」が勃発します。
この時、長近さんの嫡男の長則(ながのり)さんも明智軍に襲われ、二条城で織田信忠(おだのぶただ)さんとともに討死していまいます。
悲しみに暮れる長近さんでしたが、周囲の状況も刻々と変わる中、更に追い討ちをかける出来事が起こります。織田家の跡目争いの中激しく対立する羽柴秀吉さんと柴田勝家さんが衝突した賤ヶ岳の戦いです。
柴田勝家さん方に与した長近さんでしたが、勝家さんが敗れると剃髪して羽柴秀吉さんへ降伏。長近さんの落胆半端なしです。
しかし、長近さんのすごいところはここからです。
その後の小牧長久手の戦い、富山の役、飛騨国の姉小路討伐で功績を挙げ続けたことで、1ついには飛騨一国を与えられる大名に昇進し拠点を移しました。
その後、越前大野城には青木一矩(あおきかずのり)さんや織田秀雄(おだひでかつ)さんが城主として入っていきますが、1601年に結城秀康(ゆうきひでやす)さんが越前へ入国すると、その家臣である土屋正明(つちやまさあき)さんが3万8千石で入城します。
しかし、1607年に藩主の秀康さんが亡くなると、正明さんは大恩ある秀康さんを追って殉死したことでその子忠次さんが跡を継ぎます。
2年後には同じく重臣であった小栗正高(おぐりまさたか)さん、1624年には結城秀康さんの子である松平直政(まつだいらなおまさ)さんが上総国から転封となりこの地で5万石を所領することになりました。
以後松平氏、土井氏と城主は変わると、そのまま世襲で継がれながら時代は明治へと移っていきました。
大野藩主の中でも特に利忠(としただ)さんは、幕末期に藩財政改革に着手した名君として現在も讃えられています。
門閥を問わず、優秀な人材を登用し、在位44年の間に財政の再建を成し遂げたほか、4万石の小藩ながら、以下のような様々な事業を行いました。
藩校明倫館の開設、国書漢籍の充実、洋学館の開設、西洋医学の採用、種痘の実施、病院の開設、西洋砲術の採用、鉄砲の製作、藩店「大野屋」全国各地に開店、蝦夷地探検と開拓、屯田の実行、藩船「大野丸」の建造などなど…。
藩のアンテナショップで江戸時代の第3セクターと呼べる「大野屋」。
実質的な経営者は家老の内山良休(うちやまよしやす)さんといわれていますが、最盛期には店舗を37店にまで増やし、藩の財政を支える屋台骨となりました。
まさに江戸時代の敏腕起業家ですね。