日本最古の五重の天守をもつ松本城
現在、日本で現存天守を持つ城は12城。
松本城はその内の一つに数えられるとともに、五重の天守を持つ城では日本最古の城でもあります。
天守の黒壁と冠雪したアルプスの山々とのコントラストが美しく、出会った瞬間に思わず目を見開いてしまうくらい魅力的なお城。
そんな松本城の歴史をご紹介したいと思います。
1.松本城の前身の城「深志城」
そんな松本城の歴史を紐解くと、その前身は「深志城」から始まっています。
この松本の地は、底平地でいくつもの川が合流し湧水も豊かだったことから、古くから「深志」または「深瀬」と呼ばれていたそうです。
そんな「深志」も、現在の上田市から国府が移ってくると、信濃国の中心となり、その後は「府中」と呼ばれるようになります。
この信濃国の中心地の府中に信濃国の守護に任ぜられた小笠原貞宗(おがさわらさだむね)さんが入ると、貞宗さんは現在の松本城のやや南方に居館を築きました。
この居館が、松本城の前身とされる深志城のはじまりと考えられています。
その後も小笠原氏は、居館のさらにその南方にも林城というお城を築きます。
小笠原氏は、今度はその林城をあらためて居館としたことにより、深志城は林城の支城としてその後機能することになります。
2.武田信玄の信濃侵攻
戦国時代に入ると、1548年に武田信玄(たけだしんげん)さんが信濃国に進出をはじめます。
信玄さんは、当時の信濃国守護だった小笠原長時(おがさわらながとき)さんを攻めるとその戦いに勝利し、長時さんを国外へ追放します。
信玄さんはその後深志城に城代を置くと、大急ぎでこの城の拡張工事を行わせました。
なぜそんなに急がせたかというと、目的は深志城を今後攻略を計画している東信濃と北信濃への進出拠点にすることにありました。
しかし信玄さんは三方ヶ原の戦いで徳川軍に勝利した後、志半ばで信濃国にて病没。
武田氏はその後の織田・徳川連合軍との「長篠の戦い」での敗北したことで、それをきかっけとして急速に勢力を失っていったといわれています。
遂には天目山の戦いで、当主の武田勝頼ん一族は自刃し、名門武田家は滅亡してしまいました。
その後の深志城はというと、武田氏に勝利した織田氏へ明け渡されますが、武田家を裏切り信長さんに所領安堵された武田家一族衆、木曽義昌(きそよしまさ)さんが城主として入ります。
その後も深志城は、信濃国の勢力図が変化するとともに城主は次々と入れ替わり、城も徐々にそのかたちを変えていきました。
3.「本能寺の変」と松本城の誕生
所領を安堵され深志城主となった木曽義昌さんですが、安心できたのも束の間。
織田信長さんが本能寺で横死をとげると、これまでの状況が一変します。
武田氏から織田氏に統治が変わり、まだその動揺が収まらない信濃国。
さらに周辺勢力と多く接していたこの国は大混乱となります。
この混乱に乗じて北信濃に侵攻を開始したのが、越後の上杉景勝(うえすぎかげかつ)さん。
景勝さんは深志城を攻撃して木曽義昌さんを追い出すと、信濃国の元守護だった小笠原長時さんの弟の貞種(さだたね)さんを城主に置き支配しました。
しかし、それに不満を募らせたのが長時さんの嫡男小笠原貞慶(おがさわらさだよし)さん。
嫡流の自分ではなく、叔父が城主に収まったことに腹を立てた貞慶さんは、隣接する三河国を治める徳川家康さんの支援を得ることにします。
そして旧臣を集めると、家康さんの協力を得て叔父の貞種さんが篭る深志城を攻めたてました。
防戦一方だった貞種さんは、ついに持ちこたえられずに越後の景勝さんの元へ逃亡。
貞慶さんはめでたく父の旧領と深志城の奪還に成功しました。
そしてこれを機に、城の名前も「松本城」とあらためます。
4.小田原征伐と国替え
その後、織田軍団内で敵対する武将を倒し、ほぼ天下を手中にした豊臣秀吉さんが、関東へ進出を開始します。
世にいう、小田原征伐です。
21万といわれる大軍を動員し小田原城を包囲すると、関東一円に大きな勢力を誇った北条氏もついには降伏し滅亡しました。
そしてその影響は、近隣の信濃国にも及ぶことになります。
信濃国を統治していた豊臣傘下の徳川家康さんが、小田原征伐の論功行賞により関東へ国替えとなります。
松本城の城主だった小笠原貞慶さんの子の秀政さんは徳川氏に属していたこともあり、これにあわせて下総国の古河へと移ることになりました。
小笠原氏が松本城を去ると、代わりに入城したのが、豊臣家に臣従していた石川数正さんです。
10万石を得ての和泉国からの入封でした。
この数正さんとその息子である康長さんは、二代に渡り松本城の天守を始め、城郭・城下町の大規模な整備を行っていきます。
実はこの石川数正さん、元は徳川家康さんの重臣でした。
しかも家康さんの人質時代もそれに従い、家康さんが独立してからも岡崎城の城代を任されるほどの重臣中の重臣。
その彼に何があったのか、1585年に一族を連れて大坂へ出奔すると豊臣秀吉さんの配下となり和泉国で10万石を与えられていました。
家康さんの心境はかなり複雑でしたでしょうね…。
5.石川家への徳川政権の復讐?
石川数正さん親子が松本へ入って2年後、「文禄の役」の出兵します。
そんな中、数正さんは滞在先において死去したといわれています。
数正さんの跡を継いだ康長さんは、取り掛かっていた松本城天守の建築を引き続き急ピッチで進め、支配地域の統治により力を注いでいきました。
徐々にその基盤も安定してきた矢先、石川家を脅かす大きな事件が勃発します。
それは江戸幕府の代官頭として大きな権力を奮った大久保長安さんの死去をきっかけとして起こりました。
世にいう「大久保長安事件」です。
長安さんの死後、長安さんが管理していた代官所などで不正が発覚したといわれますが、長安さんの子は幕府の調査を拒否。
これにより、長安さんが生前に権力を利用して私腹を肥やしていたと判断され長安さんの息子7人には切腹という厳しいご沙汰が下されました。
その余波は宴席関係のあった松本の石川家にも及びます。
康長さんの娘は、長安さんの嫡子の大久保藤十郎さんに嫁いでいたことから共謀して知行を隠匿した疑いをかけられ、遂には幕府からは改易のご沙汰が下されました。
これは一説では、徳川家内部での大久保忠隣(おおくぼただちか)さんと本多正信(ほんだまさのぶ)さんとの権力闘争の影響ともいわれ、正信さんが長安さんの死後に家康さんへ讒訴したことで大事件に発展したといわれています。
石川家においては、かなりのとばっちりとしか言いようがありません。
6.小笠原家とその後の松本城
石川家かの改易後の松本城には、元松本城主だった小笠原秀政(おがさわらひでまさ)さんが再び返り咲くことになりました。
その後幕府は、豊臣家を滅亡へと追い込む「大坂夏の陣」で全国の大名を動員。これに秀政さんも参戦します。
激戦といわれた天王寺口の戦いおいて、小笠原軍は大坂方の猛攻を受け大打撃を負います。
この戦いで、既に家督を譲っていた子の忠脩さんが戦死。
秀政さん自身も瀕死の重傷を負い戦場を離脱しますが、間もなくその時の戦傷により亡くなりました。
小笠原家では、秀政さんの次男の忠真さんが家督を継ぐことになります。
兄の跡を継いで松本城主となった忠真さんは、後に播磨三木明石10万石、豊前小倉15万石と順調に加増を受けながら有力大名へとのし上がっていきました。
小笠原家転封後の松本城には、松平(戸田)康長さんが1617年に城主として入ります。
この康長さんですが、家康さんの義理の妹を妻とし、実直で穏やかな性格だったことから、家康・秀忠・家光の3代の他、伊達政宗さんからも厚い信任を受けた人物だったようです。
康長さんの死後は、越前松平氏、堀田氏、水野氏を経て、松平康長さんにはじまる戸田松平家が代々の居城としました。
しかし、1727年に本丸御殿が焼失。
以後、藩政は二の丸で執務がとられるようになりました。
松本城最後の城主は戸田光則(とだみつのり)さん。
光則さんは、1869年に信濃国の諸藩の先頭を切って版籍奉還の申し出を行い、これが認められて藩主は松本藩知事となりました。