一昨日、大坂城三ノ丸跡の発掘調査現場に行ってきました。
場所は大阪城の南東に位置し、大手門からほど近い大阪府警本部と大阪府庁新別館の間です。
この日はちょうど大阪城で主催している「お城ウォーキング交流会」の開催日。
たまたま参加者の方から現地説明会の情報をいただき、終了後に一緒に見学に行きました。
発掘現場に行ってみると、高槻城現地説明会時の行列の印象が強かったせいか、思いのほか見学者が少なく感じました。
でも、現場はすごく綺麗に発掘整備され見学もしやすかったので超感動✨
発掘された屋敷跡は三段のひな壇状に造成されていて、南北15m、東西20mという建坪90坪以上のものだったようです。
南北にはそれぞれ入口の跡が見られ、北側には玄関を装飾するために用いられる玉石が敷き詰められていた跡も。
このことからこの北側が正面玄関だった可能性が高いという結論に達したようです。
また屋敷内にあった集水桝跡から、「五本骨扇に月丸」の家紋が入った瓦が発見されました!
そう、ご存知の方も多いと思いますが、常陸は佐竹氏の家紋です。
↓下の写真が佐竹氏の家紋が入った瓦です。
この発見により屋敷跡は、時代背景などを考慮して佐竹義宣のものだったという説が有力となりました。
この三ノ丸跡には、当時大名屋敷が建ち並んでいた場所ですので、歴史好きにとってはほんと興味深い発見です✨
屋敷の周囲は一段低くなっていて、それぞれ区画割りの溝跡が見つかりました。
この区画跡の礎石(建物の柱の土台)は屋敷跡のものと比べてかなり小さいことから、簡易的な建物が建っていたと想定されます。
この区画の一部からは、火縄銃の玉の製造途中のものなども出土しており、「大阪の陣」の際に兵士の収容施設のような建物だったのではないかと考えてられています。
↓下の写真の区画①の場所から発見されてます。
ここまで読まれてお気づきの方もいらっしゃると思いますが…。
そうなんです!
要するにこの発掘現場、佐竹氏の屋敷が建てられた豊臣秀吉死の直後の時代と、大阪の陣が起こり兵士が集められた時代の両方。
つまり、別々の時代が共存する奇跡的なスペースだということがわかったんです!
めっちゃ感動!
時代を遡りここまで知ることができるなんて、素晴らしいですよね。

お隣の大阪府警本部ビルの地下には、豊臣時代の大坂城の障子堀の跡も過去見つかっていて更に妄想が膨らみます。
こんな貴重な遺構がまた埋められてしまうなんて、なんか残念だなぁ。