今回は、加賀一向一揆の拠点として築かれ、最後まで織田軍に抵抗した鳥越城をご紹介したいと思います。
城跡としてはかなり当時の雰囲気を感じることのできるお城です。
鳥越城跡は、現在の石川県白山市にあります。
この城は、「百姓の持ちたる国」と呼ばれた加賀国で一向一揆の軍事拠点として築城されました。
築城者は鈴木出羽守(すずきでわのかみ)さんとされる説が有力で、紀伊国の雑賀鈴木氏の一族だといわれています。
雑賀鈴木氏というと、鉄砲傭兵集団を率いたといわれる雑賀孫一(さいがまごいち)さんが有名ですよね。
「百姓の持ちたる国」というと、百姓=農民と思われる方もおられますが、この時代の百姓は、実際は地侍や土豪、農民を含めたすべての人の総称で、その構成されている身分は農民だけではありませんでした。
そもそも加賀一向一揆ですが、きっかけは冨樫政親(とがしまさちか)さんの要請を受け、守護家の内紛に本願寺蓮如(ほんがんじれんにょ)さんが介入したことで起こった信徒による権力への抵抗運動でした。
政親さんが守護家での自分の地位を高めるために、本願寺門徒や信仰者の力を利用しようとしたことが発端で起こったものです。
その結果、国内で浄土宗を信仰する本願寺門徒の勢力が拡大していきます。
ところが徐々にそれが疎ましく感じられてきた政親さんが、本願寺を弾圧しはじめたことで、逆に返り討ちにあったという顛末が「百姓の持ちたる国」の成立というわけです。
ちなみにこの加賀本願寺は、現在の金沢城の場所にあった「金沢御堂」を中心に構成されており、北二郡・南二郡に分類されていました。
更に南二郡は、能美郡・江沼郡のふたつに分けられ、能美郡は山内組、山上組、板津組、南組の4組によって治めらていたと伝わっています。
この中の「山内組」がこの鳥越城を本拠とし、激しい戦いを繰り広げていくことになります。
1573年頃に一向一揆の軍事拠点として築城された鳥越城ですが、越前朝倉氏の滅亡とそれに続く越前一向一揆の壊滅により、ついに織田軍の領地と隣接し戦いの匂いがプンプンするようになってきます。
鳥越城を拠点とする山内組では、迫り来る織田軍の来襲に備えるべく、附城(つけじろ)として二曲城や瀬戸砦・尾添砦などの整備を行い白山麓の要塞化に力を入れていきました。
しかし、越後の上杉謙信さんの死去や大坂石山本願寺の織田軍への降伏・開城によってこの北陸における勢力図は一変します。
加賀一向一揆の最大拠点であった金沢の尾山御坊も、ついには織田軍の佐久間盛政(さくまもりまさ)さんの攻撃により陥落してしまいました。
まさに加賀一向一揆の最後の砦となってしまった鳥越城。
ついに織田軍との全面戦争の局面を迎えることになりました。
しかし、鳥越城の鈴木出羽守率いる山内衆は、織田軍に対し徹底抗戦の構えをみせます。
織田軍の柴田勝家さんは何度も鳥越城への攻撃を仕掛けますが、なかなかこの城を落とすことができませんでした。
そこで勝家さんは一計を案じます。
これまでの城への力攻めを一時取りやめ休戦を持ちかけると、鈴木出羽守(すずきでわのかみ)さんとその息子二人を松任城に呼び出し謀殺してしまいました。
主を失った鳥越城は一気に士気を失い、1578年ついに鳥越城は落城。
しかし、城を失ってもだまし討ちにあった山内衆の怒りは収まらず、その後も抵抗をつづけました。
2年間に2度も一揆を蜂起したものの、その都度織田軍によって鎮圧されてしまいます。
織田軍もそんな状況に終止符を打つべく、大規模な残党狩りを行います。
300名を超える一向宗徒を捕縛し磔刑にしたことで、加賀一向一揆と織田軍との戦いは終結しました。
その後、白山麓は約3年もの間人影はなく、土地は荒れたままの状態だったと伝えられています。
これまでの話の詳細は、二曲城近くにある「鳥越一向一揆歴史館」で知ることができます。
映画でも観ていただくことができますので、すごくわかりやすくおススメです。