駿府城は、現在の静岡県静岡市にあります。
駿府と聞いて一番に思い浮かべるのは戦国武将は、私の場合は今川義元(いまがわよしもと)さん。
でもこの駿府は、徳川家康さんが人質として幼少期を過ごし、隠居後に江戸から移り住むために城を大規模に拡張工事したことでも有名です。
現在の駿府城では、その頃の天守台の跡が発掘されていて、そこから当時の天守の巨大さをうかがい知ることができるようになりました。
多分、この巨大な駿府城の敷地内にあったのでしょうが、今川義元さんが居館とした駿府館がどこのあたりにあったのかすごく謎なんですよね~。
さてこの駿府城ですが、1404年に当時の駿河守護職の今川範政(いまがわのりまさ)さんが館を築いたのが起源といわれています。
その後、今川氏親(いまがわうじちか)さんの代には勢力も強くなり国情も安定したことで、1488年に家臣の朝比奈泰似(あさひなやすもち)さんを奉行に命じて駿府城を築城しました。
朝比奈泰似は、当時の今川家家老で掛川城主、朝比奈泰煕(あさひなやすひろ)さんの弟。
その泰煕の孫が最後まで今川氏真を守り抜いた忠臣として有名な泰朝さんというのは、以前の掛川城の投稿でもお伝えした通りです。
氏親さんの子となる義元さんの時には、しっかりとした城下町が整備され、駿府は「東の京」と呼ばれるようになります。
当時の東京は駿府だったんですね。
そしてこの義元の頃に、三河の松平広忠(まつだいらひろただ)さんが岡崎城で暗殺され、送られてきた人質が後の徳川家康さんとなる竹千代でした。当時8歳だったといわれています。
1560年、今川義元さんが桶狭間の戦いで敗死すると、求心力を失った今川家は急激に衰退していきます。
これを機に岡崎城で独立し三河一国を平定してた家康さんは、名を徳川と改姓。
その後、甲斐国の武田氏と密約を結び今川家を挟撃する作戦をとりました。
この密約の成立を機に、1568年についに武田信玄さんが駿河国へ侵攻。
当主今川氏真(いまがわうじざね)さんは北条氏に援軍を求め、薩埵峠で迎え撃とうとしますが、次々と家臣の武田家への内通が発覚し命からがら掛川城へ逃げ延びます。
栄華を誇ってきた駿府の町は、武田軍が放った火によって、今川家がこれまで築き上げてきた駿府館とともに灰燼と帰してしまいました。
駿府を手に入れた信玄さんは、駿河湾が見下ろせる久能山に新たに城塞を築造。
さらに駿府館の詰城と考えられている賤機山城も改修し、山麓にある浅間神社の境内に楽市を許したことにより、城下は大変な賑わいをみせたといわれています。
しかし、信玄さんが亡くなり武田家かの衰退がみられると、1583年今度は徳川家康さんが駿河へ侵攻します。
駿府を手に入れた家康さんは、家臣の松平家忠(まつだいらいえただ)さんに駿府城の改修を命じ、1584年に居城としていた浜松城より移りました。
1570年、家康さんは豊臣秀吉さんより小田原征伐の功績として、関八州を与えられたことにより江戸へと移ります。
家康さんの後には、秀吉の家臣である中村一氏(なかむらかずうじ)さんが駿府城へ入城。
その後、この中村氏は、関ヶ原の戦いでは家康側の東軍に属した功績により子の一忠さんは米子へ加増転封となったため、駿府城には家康さんの異母弟でもある内藤信成(ないとうのぶなり)さんが城主として入りました。
1605年になると、家康さんは将軍職を子の秀忠さんに譲り、自身は駿府城で隠居することを決めます。
当然、城主の内藤信成さんは移封が確定となり、近江国の長浜城主として琵琶湖畔に建つ城へと移っていきました。
1607年、家康さんは得意の天下普請を発令します!
畿内とその他10カ国の大名を動員し、スーパー突貫工事が行われました。
そのわずか5ヶ月後には天守閣が完成し、その3ヶ月後には全城が完成したと伝えられています。
8ヶ月で天守閣を含むこれだけ大規模な城が築城されたんですから驚きです。
築城に関わった大名たち、さぞかし大変だっただろうな…。
天下普請で完成をみた徳川家康さん自慢の新駿府城。
しかし、完成してまだ日も浅いその2ヶ月後。
なんと御殿女中の火の不始末によりまさかの本丸が全焼してしまうという事件が発生しました。
気を取り直した家康さんは、その翌月に再び築造を命じ、またもやスーパー突貫工事で3ヶ月後には5層7階の大天守が完成しました。
新しい駿府城の築城が完了すると、最後のタスクとなる豊臣家を滅ぼすことに家康さんは集中します。
そして大坂夏の陣で心残りとなっていた豊臣家を滅亡させると、それに安心したのか1616年4月16日にこの駿府城で75年の生涯を閉じました。
その後駿府城主には、徳川頼宣(とくがわよりのぶ)さん、忠長(ただなが)さんが就きますが、忠長さんが乱行により高崎藩へお預けになってからは、幕府の直轄地となり旗本が城代を務めます。
駿府城は1635年にも再び天守閣が焼失。
残ったわずかの建物もその後の明治維新の際に破却されてしまい、今ではほとんど遺構は遺されていません。
ただ、現在も天守台の発掘調査が順調に進んでおり、今後家康さん時代の駿府城の全容が明らかになってくるかもしれません。
そうなる日が来るのがすごく楽しみです。
ちなみに駿府の城下町は、駿府城天守の背後に富士山が悠然とそびえる風景を意識してつくられたといわれていて、町全体がアートとなっているところがにくい演出ですよね。