●城あそびポイント
①石垣をみながら城を一周してみよう
金沢城の周囲を一周しながら、石垣の積み方をみてみよう。
「石垣の博物館」とも呼ばれる金沢城の所以がよくわかります。
一度に時代ごとの様々な石垣を観ることができるのは大変貴重です。
②白い瓦の秘密を学んでみよう
金沢城の瓦は、鉛瓦葺きで白く見えるのが特徴。
何故鉛が使われどのような瓦の構造になっているか学べます。
③三十間長屋の「なまこ壁」をみてみよう
目地がナマコに似ているところから「なまこ壁」と呼ばれるようになったとか。
三十間の長屋の壁は乳白色と紺色がグラデーションのようになっていて綺麗です。
でも、この色は昔の火災の熱によって変色した奇跡の発色らしい。

●訪問前にぜひ読んでもらいたいおすすめ書籍
「よみがえる金沢城<1>450年の歴史を歩む」
石川県教育委員会事務局文化財課金沢城研究調査室
●金沢城の歴史
石川県金沢市にある金沢城は、「石垣の博物館」と呼ばれるくらい石垣の種類の多さやその美しさは有名です。
お城を一周するだけで様々な年代につくられた石垣や積み方が観れるので、それだけで楽しんでいただけます。

金沢城の前身は、加賀一向一揆の本拠となった金沢御坊(かなざわごぼう)です。
別名、金沢御堂(かなざわみどう)または尾山御坊(おやまごぼう)と呼ばれました。
大坂の石山本願寺同様に石垣を巡らせた城とも言える要塞でしたが、1580年に織田軍の主将であった柴田勝家(しばたかついえ)さん配下の佐久間盛政(さくまもりまさ)さんの手勢により占拠されました。
盛政さんは、加賀一向宗の本拠だったこの城のイメージを完全に払拭するため、仏像や堂塔を打ち壊して戦国城郭へと変貌させます。
また、一向宗徒のゲリラ攻撃に備えて、土塁や堀の造成を急ぎ御山を尾山と書き改めたことで尾山城(やまじょう)と呼ばれるようになりました。
しかし、新たに改修されたこの城には、賤ヶ岳の戦いで敗れた盛政さんが羽柴秀吉さんに捕らえられ処刑されたことをきっかけに、1583年に前田利家さんが入城することになります。
そして、さらに近世城郭へと変貌を遂げていきました。
この城は、前田家の客将となっていた高山右近さんに新たに縄張りがされたといわれており、1592年から再び改修工事が始まりました。
城郭は、郭や堀が拡張され5重の天守や櫓が並び建てられるとともに、一向宗のゲリラ攻撃を警戒してか、小坂口(今の河北門)を正門にあらためられ、城の向きも北北東に変更が加えられました。
しかし、1602年には天守が落雷による火災で焼失。
その後天守は再建されず、天守台には御三階櫓がつくられますが、その後の落雷によりこれも焼失してしまいました。
さらに1620年にも火災で本丸が焼け、1631年には城下町での放火が原因てにより城内に類焼するような大きな火災が相次ぎました。
これらの火災により、水に乏しい金沢城内の防火に対する課題が浮き彫りとなったため、加賀藩では城内防火を強化すべく、1632年に辰巳村から用水を引き込む工事に取り掛かりまます。
この用水路の構築には、板谷平四郎さんという測量や和算・算盤が優秀な人物が、三代藩主の前田利常(まえだとしつね)さんに認められ、開削事業を任されましたといわれています。
そんな金沢城の重要かつ困難な工事は、その後も長い年月をかけて行われますが、1632年の完成後には水を引いた地名から「辰巳用水」と呼ばれるようになりました。
1676年には、5代藩主綱紀さんによって別邸がつくられるとその周辺に作庭がされました。これが現在日本三大庭園のひとつに数えられる「兼六園」の前身となります。
その後も金沢城は幾度の火災に見舞われますが、明治維新まで加賀100万石と呼ばれる前田家の居城として生き残りました。
金沢城は、前田利家さんの時代から本格的に石垣が作られていきますが、城への出入口や庭園など場所に応じて特殊な技術やデザインが用いられています。
また、江戸時代には何度も修復が繰り返されたことで、それぞれの時代の特徴のある石垣が今も残っています。
石垣の秘伝書や石垣に関する歴史資料、石を切り出した丁場などの環境も備わっていることから、今では金沢城は「石垣の博物館」と呼ばれるようになっています。
ぜひ金沢に行かれる機会がありましたら、金沢城を1周してみてください。
様々な石垣を見ていただけるのでおススメです。