越前朝倉氏一乗谷館の歴史

●城あそびポイント

①発掘・復元された昔の町並みを散策しよう
当時の町並みが200mに渡って復元されていて、侍屋敷や町屋の内部まで細かく再現されているので、タイムスリップした感覚を味わえます。
また、町の中は「遠見遮断方式」といわれる敵の侵入を防ぐための工夫が施されており、現在日本でこの方式が見られるのは、この朝倉氏遺跡のみということです。


②朝倉家当主の館跡とその庭園跡を巡ってみよう
朝倉家の当主が過ごした館跡や特別名勝にも指定されている庭園跡を観ると、当時の朝倉氏の華やかな文化を感じることができます。
湯殿跡庭園からは、朝倉館の全体像を観ることができる貴重な場所です。


③唐門に刻まれた朝倉氏の家紋「三ツ木瓜」をみてみよう
朝倉氏館の入口にある唐破風造りの屋根を持つ門。この門は、朝倉義景の菩提を弔うために松雲院の門を移築したものだといわれています。
下から見上げると、朝倉氏の「三ツ木瓜」の家紋がよく見えます。
そしてその裏側にもあの家紋が…。

●訪問する前に読んでもらいたいおすすめ書籍

「朝倉氏の城郭と合戦」
著者:佐伯哲也 戎光祥出版

●越前朝倉氏一乗谷館の歴史

越前の名門朝倉氏が11代にわたり居城とした一乗谷館。

この館跡は現在の福井県福井市にあり、東西の幅が500m、南北3kmの谷底にある平野に築かれていました。

谷の入口部分には土塁を築いて城門が作られ、京に近い南側は上城戸、北側は下城戸と呼ばれています。

この間の約1.7kmには、朝倉氏の居館や侍屋敷などが作られ、一大城下町が形成されていました。

当時応仁の乱で京の町は荒廃していたので、多くの公家や高僧・文人が避難してきたことで、この一乗谷は飛躍的に発展。
華やかな京文化もここで開花し「北ノ京」とも呼ばれていたようです。

この一乗谷に拠点を置いた朝倉氏は守護代となり、1503年には国内統一のための戦いを行います。
その3年後には、敵対していた30万人にものぼる加賀一向一揆との戦いに勝利し撃退しています。
この強大な外敵の侵入という最大のピンチを切り抜けた朝倉氏は、その後の4代の孝景さんの時代に全盛期を迎えました。

最盛期には人口が1万人を超えていたといわれ、越前国の中心地としてこの一乗谷は繁栄しました。

その後もこの北陸の地で平和な時代を過ごしていた朝倉氏ですが、1548年、10代朝倉孝景(あさくらたかかげ)さんが死去すると、徐々に周囲の状況は変わっていきました。

11代目の朝倉家当主として16歳で家督を継いだ延景(のぶかげ)さんの頃には、再び加賀一向一揆との対立が激化。

延景さんが若年であったため、従曽祖父の朝倉宗滴(あさくらそうてき)さんが政務と軍事を補佐していました。
しかし、1555年にその頼みの綱の名将といわれた宗滴さんが死去。
延景さん自らが政務を執るようになります。

延景さんは1552年、時の室町幕府13代将軍の足利義輝さんより、「義」の字を与えられて義景と改名。
この義景さんが、大河ドラマ「麒麟がくる」でもお馴染みの朝倉義景さんです。

1565年、足利義輝さんが松永久秀さんらによって暗殺されるという「永禄の変」が起こります。
義景さんは、大和国の松永久秀さんのもとに幽閉されていた義輝さんの弟、義秋さんの救出を助け居城の一乗谷に迎え入れました。

義秋さんもその恩に報いるため、長年朝倉氏と敵対関係にあった加賀一向一揆との和睦を仲介し成立させるなど協力を惜しみませんでした。

その後、義秋さんはこの一乗谷で「義昭」に改名し元服します。

しかし義昭が望む上洛戦に対し、義景さんが乗り気でなかったためか、義昭さんは義景さんを見限り、美濃を支配下にして勢い盛んな織田信長さんを頼り越前を後にしました。

1568年、織田信長さんは足利義昭さんを奉じてついに上洛。
上洛を果たした信長さんは、将軍である義昭さんの命令として二度にわたり義景さんに上洛を命じます。

しかし、面白くない義景さんは断固拒否。

これが「義景さんに叛意あり」として越前出兵への口実を与えることになり、義景さんは信長さんとの間で幾多の戦いが繰り広げられました。

1573年、信長さんが3万の軍勢で近江に侵攻すると、義景さんはそれを迎え討つために出陣命令を出します。

しかし義景さんは、これまでの織田軍や一向一揆軍との戦いが続いたことで、家臣の信頼も失っていたことで、ついに従妹である朝倉景鏡さんなどの有力家臣まで兵の疲弊を理由に出兵を拒否するような事態となります。

しかし義景さんは無理を押して出陣した結果、織田軍に敗北を喫し撤退中の刀根坂において壊滅的な被害を受けながら、命からがら10名ほどの家臣と一乗谷に帰還しました。

一乗谷に戻った義景さんが目にしたのは、すっからかん状態になった一乗谷の町でした。
朝倉軍の壊滅を知って留守を守っていた将兵の大半は逃走してしまっていました。

義景さんは一時は自刃を覚悟するものの、家臣に止められ朝倉景鏡さんの勧めもあって賢松寺へ避難することにしました。

その一方で織田軍の柴田勝家が、先鋒となって一乗谷に攻めこみ、居館や神社仏閣を焼き払いました。
この放火により、一乗谷は三日三晩燃え続けたといわれています。

賢松寺へ逃れた義景さんでしたが、そこで身内の景鏡さんの裏切りによって寺を200騎に襲撃され自刃。
これにより、越前国で11代にわたり繁栄した朝倉氏は滅亡しました。

一乗谷は近年の発掘調査で当時の朝倉氏の居館や武家屋敷など跡が発見され、現在もその整備が行われています。