岸和田城の歴史

だんじり祭りで有名な、大阪府岸和田市。
そこに今回紹介する岸和田城があります。

岸和田城がいつ誰によって築かれたのか詳しいことはわかっていませんが、16世紀半ばには当時泉州地域を治めてていた松浦氏の居城となっていました。

その頃には、既に初期型岸和田城が形成されていたといわれています。

その後この地を手中にした羽柴秀吉(はしばひでよし)さんは、当時敵対していた紀州根来寺や雑賀衆に対する重要拠点としてこの城を再築城し、信用をおいていた中村一氏(なかむらかずうじ)さんをこの城の城主としました。

紀州征伐が終わると、秀吉さんは叔父の小出秀政(こいでまさひで)さんを城主に任命。
秀政さんは城下町と城郭の整備を進めていきます。
岸和田城にはこの時に五層の壮大な天守も建てられました。

「正保城絵図」にも、立派な五層の天守閣が描かれています。
現在あるものは、昭和29年に再建された絵図とは無関係な模擬天守なんですが、絵図にある天守に建て直そうとする長期計画案も出されているようです。

豊臣氏滅亡後は松平康重(まつだいらやすしげ)さんが入城しますが、この松平氏二代を経て、1640年に摂津高槻から岡部宣勝(おかべのぶかつ)さんが入城しました。

その後は明治維新までこの岡部氏が13代にわたって岸和田藩5万3千石を治めました。

岸和田城ですが、大坂城と和歌山城の中間地点にあることから、紀州藩の監視の意味もあったとされています。

徳川御三家の一つ和歌山城も徳川幕府の相互監視政策に対し例外はなかったようで、徳川家康の子である徳川頼宣に対する抑えの城としても城郭が整えられたのではと考えられています。

戦国の空気が残っていたころなので、親戚同士でも油断はならないということでしょうか。

岡部宣勝さんが大改築した際の城郭は、東西約370m、南北約650mの平城で、本丸・二の丸・三の丸の総曲輪の規模としてはかなり大きなものだったようです。

さらに、本丸の東と南下の犬走りは石垣を補強するためのものですが、本丸を大きな内堀の中に浮く島のように見せて美しさを一層強調させています。

ちなみに、岸和田藩主の岡部家は、代々本草(薬草)学に熱心で、城内に薬園をつくり整備していました。

中でも9代藩主長慎の「重訂本草綱目啓蒙」(じゅうていほんそうこうもくけいもう)は本草学史上有名なものだそうです。
当時の薬草研究の第一人者であり大名だなんて凄い経歴ですね。

また5代城主の長泰(ながやす)さんの頃には、現在にも受け継がれ親しまれている「だんじり祭り」が生まれました。

お城の鎮守として京都の伏見稲荷を勧請にした際に、城下の人々がこれを祝って車をつけた箱に太鼓を乗せて賑やかに踊り歩いたことから、これが今日の地車祭り(だんじりまつり)として規模も大きく有名になったそうです。