米子城の歴史

伯耆富士と呼ばれる大山と日本海を同時に見渡すことができる城がこの米子城。
その眺望は、これまで行ったお城の中でも確実に5指には入る絶景です。

そんな米子城は、現在の鳥取県米子市にあります。

米子城は1467年から1487年に山名宗之(やまなむねゆき)さんによって飯山に砦として築かれたのがはじまりといわれています。
その後、西伯耆の領主となった吉川広家(きっかわひろいえ)さんが1591年に築城を開始。しかし、完成を見ることなく、1600年の関ヶ原の戦いに西軍として参戦したことにより、吉川氏は岩国に国替えとなりました。

〜米子藩の横田騒動〜
中村一氏(なかむらかずううじ)さんの跡を継いだ一忠(かずただ)さんは、当時11歳と幼少でした。
このため、藩政を担当したのは叔父の中村一栄(なかむらかずひで)さんと、家康から後見役として派遣された横田村詮(よこたむらあき)さん。
村詮さんは、幼少の一忠のもとで手腕を発揮し米子城築城を完成させるとともに、城下町の整備・建設を行い米子の発展の基礎を築きました。

しかし村詮さんはそれを面白く思わない一忠さんの側近の安井清一郎さん・天野宗杷さんらと対立。
1603年11月14日、安井さん・天野さんらの讒言を受けた一忠さんにより村詮さんは殺害してしまいます。

村詮さんの一族は飯山に立て篭もりましたが、一忠さんが隣国である出雲の堀尾吉晴(ほりおよしはる)さんの助勢を得たことにより鎮圧されてしました。

事件の報告をうけた徳川家康(とくがわいえやす)さんは、自らが派遣した横田村詮さんが殺害されたことに激怒。
首謀者である安井さん・天野さんの行いを幕府への反逆とみなし、吟味も無く即刻切腹としました。
一方、両名に唆された感じで殺害してしまった一忠さんは、品川での謹慎に収まりそれ以上お構いなし。

しかし1609年、当主の中村一忠さんが急死たしため中村氏は家系断絶を理由に改易となりました。
そんな一忠さんの死因ですが、青梅を食べたことによるものといわれていますが本当のところは謎です。

翌年に加藤光泰(かとうみつやす)さんの次男、貞泰(さだやす)さんが伯耆国内の2郡6万石を与えられ藩主となります。
この時、中村氏旧領の残り11万5000石は、八橋藩市橋氏・黒坂藩関氏・天領などに分割統治されました。

その加藤貞泰さんも数年後には伊予大洲に転封。
その後、1617年に播磨姫路藩の池田光政(いけだみつまさ)さんが、因伯32万石の領主として鳥取城に入ることで、米子城は池田家の家老職を務めていた池田由之(いけだよしゆき)さんにあずけられました。
ところが翌年には城主の由之さんが急死。
しかも死因は、由之さんに怨みを持った小姓による刺殺とのこと。
なんとも残念な事件です。

その後米子城の城主は、由之さんの子の由成(よしなり)さんが引き継ぐことになりました。

1632年、藩主の池田光正さんが備前岡山藩への国替えを命じられると、代わって後の池田光仲(いけだみつなか)さんが3歳で鳥取藩主の座につきます。
しかし幼少のため光仲さんは江戸藩邸に在住。
荒尾成利(あらおしげとし)さんを筆頭とした家老を中心とする側近たちに米子の領国経営は委ねられました。

その後元服した光仲さんは米子への入国後、領国経営に心血を注ぎます。
その時既に米子城代として権力を持っていた荒尾成利さんに対し、その専横を殺いで藩主親政を確立していきました。

しかし、米子城の城代はそのまま荒尾氏が代々歴任し、明治維新を迎えました。

明治維新後は、米子城はわずか37円で古物商の山本新助に買い取られ解体されます。
明治初期の1円の価値が約3〜4万円のようですので、現在価値で高くても約150万円ほどかな。

写真①

ちなみに米子城には、全国でも珍しい登り石垣があります。

〜米子城の登り石垣〜
写真①の登り石垣は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に、秀吉軍が朝鮮半島南岸に築いた倭城に多く用いられた石垣です。
朝鮮出兵にも参加した吉川広家が、米子城築城に際し、倭城に多用された登り石垣を縄張りに取り込んだ可能性が考えられます。
現在、日本の城で登り石垣が確認されているのは4城のみです。