羽柴秀吉(はしばひでよし)さんが一国一城の主となり最初に築城した城。
それが現在の滋賀県長浜市にある長浜城です。
長浜の地名は、もとは今浜と呼ばれていました。
この地に最初に城が築かれたのは1336年で、京極高氏によるものでした。
1573年8月、浅井氏を小谷城で滅ぼした織田信長(おだのぶなが)さんは、戦功のあった羽柴秀吉さんに浅井長政(あざいながまさ)さんの旧領北近江三郡12万石を与えます。
当初小谷城へ入った秀吉さんでしたが、要害の地だった小谷城を捨て今浜の地に新たに築城します。
それが現在ある長浜城となります。

今浜は、北陸と畿内を結ぶ水陸交通の要衝。
更に鉄砲の生産地として有名な国友村があったことで、戦略的に都合の良い土地でした。
城下町の建設もあわせて進められると、小谷城の城下町を強制的に今浜へと移します。
また、近くの地域から積極的に商人を誘致し、年貢を優遇しました。
このように秀吉さんが様々な政策を行い、遂には「今浜」を現在の「長浜」にあらためたことで、軍事的にも経済的にも重要な戦略的価値をもつようになりました。
秀吉さんがこの長浜城を本拠として活躍したのは、大坂に移るまでの約10年間となります。
織田信長さんが本能寺で倒れた後は、清洲会議の結果、この長浜城は柴田勝家(しばたかついえ)さんのものとなり、その甥である柴田勝豊(しばたかつとよ)さんが入城します。
しかし、その年の冬には秀吉さんは勝豊さんの籠る長浜城を5万の兵で攻め降すと、賤ヶ岳の戦いでも勝家さんの軍に勝利しました。
その陰には、秀吉さんの統治時代の善政の恩に報いるために、長浜城下の町人たちが秀吉に裏で協力を惜しまなかったことなどが伝えられています。
秀吉さんの死後、関ヶ原の合戦が行われますが、1606年には幕府の命により内藤信成・信正が長浜城主になりました。
しかし大坂の陣後の1615年、内藤氏が摂津高槻へと移封となると、残念ながら長浜城はその役目を終え廃城となりました。
長浜市にある長浜八幡宮の春祭りに催される「曳山祭り」。
これは、羽柴秀吉さんが城主の時に側室であった松の丸が男子をもうけたこと祝って、町民に砂金を贈り、それを基金にして山車を造ったのがこの祭りの始まりといわれています。
長浜城の天守から観る琵琶湖の風景は最高ですが、同じような風景を秀吉も見ていたのでしょうか。