●城あそびポイント
①福井の由来となった井戸をみてみよう
天守台のそばに「福井」の名の由来となった「福の井」があります。
天守台の石垣は1948年の福井地震で一部が崩壊し、震災の大きさが感じられます。

②廊下橋と一体になった山里口御門に行ってみよう
松平春嶽が住居としていた西三ノ丸から本丸へ向かう際に通ったかもしれない廊下橋と山里口御門。どのような感じだったのか、実際に渡ってみてはいかがでしょうか。

③福井城の前身となった北ノ庄城跡地を訪れてみよう
福井城の本丸から約1㎞南に歩いたところにあった、北ノ庄城跡。
福井城築城の際に破壊されましたが、今のその当時の石垣遺構をみることができます。

●福井城の歴史
福井の「井」の部分は、井戸の「井」と同じです。
一乗谷館跡でも井戸の跡がいくつも発掘されていますが、本当にこのような形をしています。
県名にもなっている「福井」の「井」は、この福井城内にあった井戸からきているといわれています。
実はこの地は、1575年に織田信長さん家臣の柴田勝家(しばたかついえ)さんが越前北ノ庄(えちぜんきたのしょう)に巨大な城郭を築いたことで現在の福井の基礎がつくられました。
この勝家さんが築城した北ノ庄城の天守は7層構造。
織田信長さんが居城としていた安土城に匹敵する巨大な城郭だったと伝えられています。

この城が築かれて11年後の1586年、羽柴秀吉さんによって柴田家が滅ぼされたと、それと同時にこの巨大城郭も焼失しました。
その後、この地には丹羽さん、堀さん、青木さんと城主として次々と入り統治されます。
しかしいずれも在城期間は短く、関ヶ原の合戦後のあった1600年には徳川家康さんの次男である結城秀康(ゆうきひでやす)さんが75万石でこの越前へ転封となり入城しました。
この秀康さんが越前松平藩の藩祖で、その像が本丸跡にある福井県庁の正面玄関付近に勇ましく馬にまたがってたてられています。
越前に入国した結城秀康さんは、早速柴田勝家さんが築城していた北ノ庄城と同じ城地を選び築城の計画を立てます。
しかも本丸や二の丸は、秀康さんのお父さんである徳川家康さんが自ら縄張りを行うという力の入れよう。
当時、この城地の選定には、黒丸城跡をはじめ北ノ庄近郊の丸山などいくつかの築城候補地があったようです。
その中で、北ノ庄の地であれば北ノ庄城と城下町を少し拡張すれば、新しい城の機能が果たせ、さらに費用も削減できることからこの地に白羽の矢が立ったといわれています。
福井城が完成してその北側に城下町を新しくつくろうと動いていた矢先、結城秀康さんは亡くなってしまいます。
享年24歳という若さでの急逝でした。
秀康さんの死後は、嫡男の忠直さんが跡を継ぎ二代藩主となりました。
この忠直さんは、大阪冬の陣での用兵の失敗を祖父である家康さんに大変なお叱りを受けたため、その翌年の大阪夏の陣では汚名返上とばかりに奮戦します。
自ら天王寺口の先方を買ってでて、敵の勇将真田幸村を討ち取とると、勢いそのままに大坂城へ真っ先に攻め入るなど大きな戦功を挙げました。
しかし、戦いの論功行賞は忠直さんの期待とはうらはらに、想像していた手柄に見合うものではありませんでした。
それに不満を持った忠直さんは、次第にグレはじめ横暴と乱行が目立つようになっていったといわれています。
ついには参勤交代を怠ったり、軍勢を差し向けて自分の家臣を討つなどしたことから2代将軍秀忠さんの怒りを買い、ついには隠居を命じられた挙句に豊後国へ配流のうえ謹慎となりました。
忠直さん配流後の福井城には、忠直さんの実弟でもある忠昌さんが越後高田城から入城。
その際に地名の北ノ庄は、「北」が敗北に通じて縁起が悪いということで「福居」と改称されました。
ちなみにこの「福居」から「福井」へ改まるのは、1701年の国絵図が作られた以降のようです。
この名称は、現在も天守跡の傍らにある「福の井」をとって地名にしたといわれていますが、足羽社五徳の神の1つサクイ(福井)神から借りたという説もあり実際のところはわかりません。
そんな福居城ですが、縁起担ぎの甲斐もなく城下町完成後の1659年と1669年の二度にわたり大火に見舞われました。
城内にも飛び火し、天守閣をはじめ城は全焼したといわれています。
幕府は城の再建に5万両を融資。
復興を急がせたことで三年後には新たに城は完成しますが、天守再建の許可までは出ませんでした。
1686年には、城主の松平綱昌さんに乱心ありとして、幕府はひとまず越前国を没収。
その後あらためて綱昌さんの先代である昌親さんに25万石が下賜されたことにより、越前松平家はお家断絶を免れました。
しかしこの処置により、かつての禄高である50万石から半減した影響は大きく、浪人となった家臣は1千余名、転業したもの続出という悲惨な状況に見舞われたようです。
1721年、8代吉邦(よしくに)さんの死去により支藩である松岡領主の松平昌平(まつだいらまさひら)が宗昌(むねまさ)と改名し福井藩を引き継ぎます。
これまで25万石だった福井藩も、その際に松岡藩の5万石が併合され、30万石の大名となりました。
両藩が一緒になったことで、松岡藩の多くの家臣団や寺院、町家も福井へ移り住むことになり城下町は以前の活気を取り戻します。
その後幕末には、幕末四賢侯の一人と謳われた松平春嶽(まつだいらしゅんがく)さんを藩主として迎え、福井城は日本の夜明けとなる明治維新を迎えることになりました。