玄蕃尾城の歴史

滋賀県長浜市にある玄蕃尾城。

この城は現在においても遺構がよく残っていて、山城としての縄張り構造がよい状態で維持されていることから、お城の教科書的な存在としても評価されています。

さらに平成29年には「続日本100名城」にも選定され、徐々に露出度も高まってきているこの玄蕃尾城を今回はご紹介したいと思います。

そんな玄蕃尾城ですが、築城時期についてはいくつもの説がのこされています。
①15世紀に豪族の柳ヶ瀬秀行の築城
②朝倉氏家臣、疋壇久保もしくは朝倉景連による築城
③16世紀以降に柴田勝家、もしくは佐久間盛政による築城

この城がある場所は、柳ヶ瀬山の尾根上という北陸道を見下ろせる軍事上の要所。
そしてすぐ南には、撤退する朝倉軍を織田軍が追撃し、完膚なきまでに叩いたことで有名な「刀根坂の戦い」の舞台、刀根越があります。

さらにこの玄蕃尾城を有名にしたのが「賤ヶ岳の戦い」。
織田家の事実上跡目争いといわれたこの戦いにおいて、柴田勝家(しばたかついえ)さんが本陣を置いた城です。

この戦いでは、余呉湖を挟み北側を柴田軍、南側を羽柴軍がそれぞれ砦を築き布陣。
序盤は両陣営ともに膠着状態が続いていましたが、羽柴秀吉(はしばひでよし)さんが挙兵した織田信孝さんを討つべく岐阜城へ出陣したことから、柴田方の佐久間盛政さんがその留守を狙い進撃。

これにより、羽柴方の有力武将の中川清秀さんが討ち取られ、近くの岩崎山に布陣していた羽柴方の高山右近も攻撃を受け退却しました。

しかし、大垣城から思わぬスピードで引き返しえきた秀吉軍本隊により、盛政軍は不意を突かれて反撃に遭い潰走します。
柴田軍はこれをきっかけに総崩れとなり、勝家さんはこの玄蕃尾城を後にして居城のある北ノ庄を目指し落ち延びていきました。

この城跡へ実際に足を運ぶと、なんだかその時の慌ただしい状況を目に浮かべることができるくらい、しっかりと当時の姿が想像できる土塁などを目にすることができます。

城の基本構造は、南北に並んだ主要な4つの郭が土橋で連結されて繋げられています。
すべての郭は高土塁で囲まれていて、主要な部分は土塁と空堀の幾重にも防御を施した完成度の高い山城です。

個人的には、本陣が置かれたであろう曲輪にテントを張ってキャンプをしたくなる城でした。