鳥羽城の歴史

海賊大名の城 鳥羽城

「鳥羽の浮城」と呼ばれ海に面して伊勢国の重要な海上交通を握るこの城は、三重県鳥羽市にある鳥羽水族館の道を挟んだすぐ向かい側の小高い丘の上にあります。

子供を水族館に連れて行きその遊びの帰りに一緒に回れるため、小さい子供さんをもつ城好きの親にとっては大変ありがたいお城です。

1595年に「海賊大名」の異名を持つ九鬼嘉隆(くきよしたか)さんにより築城されました。

鳥羽城は、大手門が海側へ突出して作られた全国でも珍しい形をしていて、「大手波戸水門」と呼ばれた大きな門が城の主な出入り口となっていました。

まさに「海賊大名」の城にふさわしいネーミングですね。

嘉隆さんは、志摩国の国衆の一員として身を起こし、織田信長さんや豊臣秀吉さんのお抱え水軍として活躍。
数々の功績を残したことで時の権力者に認められ、後に重要な拠点となる志摩国を任される3万5,000石の大名となりますが、こうした経歴とその勢威が「海賊大名」と呼ばれるようになった由縁なんですね。

そんな嘉隆さんは、現在の三重県志摩市にある波切城を拠点とした、九鬼定隆(くきさだたか)さんの三男として誕生しました。

定隆さんが死去した後は、長男の浄隆さんが跡を継ぎその補佐として兄を支えます。

しかし、当時の志摩国の地頭の中では、九鬼家は孤立していたため、国司の北畠具教さんの援助を受けた他の12名の地頭から城を攻められて惨敗してしまいます。

当主の浄隆さんは戦時中に病没したため、伊勢志摩を代表する霊山の「朝熊山」へ嘉隆さんとその残党は逃げこみ、再起できる日を夢見て力を蓄えながら待つことにしました。

そんな嘉隆さんに突然チャンスが巡ってきます。

尾張の織田家に仕官していた滝川一益さんの仲介により、桶狭間の戦いに勝利して一気に名声を得たニューホープ、織田信長さんへ仕官の話が舞い込んできたんです。

嘉隆さんはこの話を二つ返事で承諾し、ついに織田家臣団の一員となりました。

織田信長さんに仕えることになった嘉隆さん。
信長さんとともに北畠具教(きたばたけとものり)さんを攻めて功績を挙げ、以前集団でフルボッコにされた他の地頭さんたちも次々と倒していきます。

この功績によって嘉隆さんは、信長さんに志摩国の領有と家督継承を認められ、その後も織田家臣団の一員として活躍を続けていきました。

しかし、そんな嘉隆さんにも大きな苦難が待ちうけていました。

石山寺本願寺攻めの最中での、本願寺へ兵糧輸送を行う毛利水軍との戦い「第一次木津川口の戦い」です。

毛利水軍600隻に対し、織田水軍は300隻の船と半数ほどの船を率いて戦いますが見事に惨敗。
報告を聞いた信長さんはめっちゃ激怒。
しょぼくれていた嘉隆さんに難題を命じます。
それは「燃えない船でもつくりやがれ!」というものでした。

当時船の素材は木材しかありませんし、木材は火に弱いというのが特徴です。

「マジか…。」
そう思ったかどうかは定かではありませんが、嘉隆さんがなんとか考えだしたアイデアは木材を使った船に直接火が当たらないよう鉄板を張り付けるというもの。

なんか普通に思いうかびそうなアイデアかもしれませんが、それだけの鉄を準備するのには多額の費用がかかりますし、なにより防錆材もない時代ですから鉄は海で簡単に錆びてしまい長期間維持することはできません。

要は、使い捨て同様の高価な船をつくらなければならなかったわけです。
しかし、嘉隆さんにはそんなお金はありません。

そんな莫大な資金を調達すべく駆け込んだ先は、もちろん「ベンチャーキャピタル信長」。

なんとか信長社長の理解を得て融資の約束をとりつけた嘉隆さんは、「伊勢浦の大船」と呼ばれる鉄甲船6隻を完成させました。

そして滝川一益(たきがわかずます)さん率いる大船とともに、再び木津川口の戦いで毛利水軍を戦い大勝利をおさめました。

この海戦で勝利したことで本願寺軍の孤立化と織田軍の優位は決定的になったといわれ、大きな戦功を得た嘉隆さんは、信長さんから志摩に加え、摂津野田・福島なども与えられ、一気に3万5,000石の大名となりました。

その後、信長さんが本能寺で死去すると、織田信雄、豊臣秀吉に仕えた嘉隆さん。
朝鮮出兵の際には、李舜臣率いる朝鮮水軍の攻撃を何度となく撃退するなど得意の海戦で活躍します。

しかし1600年の関ヶ原の戦いが起こると、嘉隆さんは西軍に、息子の守隆(もりたか)さんは東軍に与することになりました。
真田家同様に家名存続のための戦略をとったんでしょうか。

嘉隆さんは、守隆さんが出陣した後の手薄になった鳥羽城を奪いとるものの、本戦で西軍が破れるとそれを放棄して、すぐ近くの「答志島」へ逃亡します。

九鬼家の行く末を案じた家臣、豊田五郎右衛門(とよたごろうえもん)さんは独断で嘉隆さんに切腹するよう促し、これを受け入れた嘉隆さんはそこで自害しました。享年59。

しかしその裏で、東軍についた息子の守隆さんは、徳川家康さんと会見し、嘉隆さんの助命を嘆願していたんです。
結果、これまでの嘉隆さんの功績が考慮され許されたんですが、その時には嘉隆さんは自害した後だったようで、守隆さんの苦労は泡となりました。

主君の名誉を重んじる想いだったとはいえ、守隆さんからすると結果的に自分の父親に自刃をすすめ、さらには幕府への除名嘆願を無にしてしまった豊田五郎右衛門さんへの怒りは収まりません。
五郎衛門さんは激怒した守隆さんの命により切腹ではなく斬首に処せられました。

嘉隆さんが築いた鳥羽城は、九鬼家の後、内藤家3代、天領、土井家1代と城主が入れ替わり、1725年以降に稲垣家が8代統治しました。

しかし、1854年に地震で城内の天守以下その他の建物は倒壊し、修理を加えられないまま鳥羽城は破却となりました。