浜田城の歴史

浜田城は、島根県浜田市北側の松原湾近くの海抜70mほどの山上にあります。

この城は、1619年に古田重治(ふるたしげはる)さんが、徳川頼宣(とくがわよりのぶ)さんの和歌山転封にともなって、伊勢松坂藩より5万4000石に国替えとなった後、約9ヶ月という期間をかけて築城したお城です。

浜田城完成した3年後の1626年にスペインの宣教師ディエゴ・デ・サン・フランシスコは、この浜田の地を「非常によい港で立派な城がある」と記録もあり、浜田藩が海運などの経済を重視していたことがよくわかります。

重治さんの跡は、甥の重恒(しげつね)さんが家督を継承。
大坂城の普請や松江城在番でも功績をあげたことで幕府からその働きを評価されました。

しかし、重恒さんに子がいなかったため、跡継ぎ不在による改易を恐れた江戸の家老たちが、同じ古田一族の古田左京(ふるたさきょう)さんの孫を重恒の養子にしようと密かに画策します。

その話を側近から伝え聴いた重恒さんは大激怒。
その家老の一派をすべてを殺してしまうという「古田騒動」を起こしました。

しかしその後に重恒さんが46歳で亡くなると、殺された江戸家老たちの不安は的中。
跡継ぎがいなかった古田家はわずか二代で無嗣断絶となりました。

「古田騒動」には異説が多いため真実はわかりませんが、家老一派皆殺しはちょっと行きすぎのような‥。

古田家が改易となった浜田城へは、1649年に播磨国山崎藩から松平康映(まつだいらやすてる)さんが入城します。

その後もこの松平氏が継投していきますが、3代藩主の康員(やすかず)さんの時、病弱の康員さんの跡目とされた養子の康房(やすふさ)さんも亡くなったこともあり、4代藩主には分家筋の康豊(やすとよ)さんがつくことになりました。

しかしその裏では、内部で後継者を巡る内紛まで起き、かなり揉めたそうです。

そんな経緯もあったことから、康豊さんは家督を相続するとすぐに自分を支持した人間を登用し、それまでの反対派を徹底的に粛清していきました。

そんな康豊さんの統治時代は、領内に飢饉も発生するなど藩政が不安定になった上、後に有名となる「鏡山事件」まで起こります。

「鏡山事件」とは、現代風に説明すると、パワハラを受けて亡くなった上司の敵討ちをその部下が行った事件です。しかも女性版の。

浄瑠璃や歌舞伎の題材にもなっているので、ご興味ある方は一度詳細を調べてみてください。

そんな苦労を経験してきた康豊さんの跡は、長男の康福(やすよし)さんが継ぎます。
この康福さんは優秀な人物で、幕府の重職である寺社奉行や大坂城代を経験し、1762年には老中にも抜擢されました。

その子の康任さんもそんな父親の血を受け継いでか、幕府より老中を命じられ幕閣に参加しするほど辣腕をふるいました。
しかし、1786年に起こった幕府を揺るがす大事件「仙石事件」に関与した疑いにより、老中を辞任するとその後は静かに隠居生活に入りました。

仙石騒動でごった返した浜田藩ですが、今度は藩内で大きな事件を起こしてしまいます。
後に「竹島事件(たけしまじけん)」と呼ばれる密貿易事件です。

借金に苦しむ藩財政を立て直すべく、藩の御用商人だった廻船問屋の会津屋八右衛門さんが、李氏朝鮮との密貿易を提案したことが事件のきっかけとなりました。

当時、国の法律では私的な外国との貿易は禁止されていたにも関わらず、藩の家老の岡田頼母(おかだたのぼ)さんなども関与したことで、その密貿易はどんどんと拡大していきました。

目標とした藩財政の回復に至るものの、幕府隠密兼探検家の間宮林蔵(まみやりんんぞう)さんに探知され密貿易の話が大坂町奉行へ報告されました。
そして、関与した家老を含む関係者はすべて捕らえられ、その後死罪。

藩主の康任さんも、この密貿易事件に加え、「仙石騒動」というお家騒動という大きな地雷を2つも踏んだことにより再起不能の永蟄居となりました。

「仙石騒動」、「竹島事件」と2つの大事件に関与して大きく傾いた浜田藩。
しかし康任さんから子の康爵さんへの家督相続はなんとか許され、陸奥国の棚倉へ懲罰転封となったことで、松井松平家の浜田藩統治は終焉となりました。

その後上野館林藩から松平斉厚(まつだいらなりあつ)さんが6万1000石でこの地へ加増転封され浜田城に入城すると領国の統治を行いました。

そしてわずかな平和な時間を経て幕末を迎えると、浜田藩は再び時代の大きな渦にのみ込まれていきます。

1866年、第2次長州征伐に対し、大村益次郎率いる長州軍がこの浜田城へ進軍。
15代城将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)さんの異母弟でもある当時の藩主松平武聡(まつだいらたけあきら)さんは、長州軍の攻撃が行われる前に浜田城に火を放ち杵築へ逃亡ししました。

その後武聡さんは松江に移りますが、浜田城は長州藩の占領下に置かれたまま、248年にわたる浜田藩の歴史にも終止符が打たれ廃城となりました。