津城の歴史

築城の名手と謳われた藤堂高虎が居城とした津城は三重県津市にあります。

津は元々「安濃津」と呼ばれ「坊津」、「博多津」とともに日本三大津といわれる良港でした。

早くには長野氏の一族がこの地に城を築いたと伝えられていますが、確かなものとしては織田信長の侵攻以後になります。
1568年、伊勢を平定をすべく織田信長さんが長野氏を攻めますがうまくいきません。

しかし、さすが信長さんはくじけません!
今まで敵として戦っていた長野氏と和睦し、弟の三十郎(後の織田信包さん)を養子として送り出すことに成功。
三十郎くんは、元敵の家へドキドキしながら養子として入ります。

その後三十郎くんは、長野信兼(ながののぶかね)と名乗り、津に築城を始めました。
そして1580年、ついに五層の天守閣がそびえる津城を完成させます。

長野信兼さんは、津城を築城後に長野氏の分家を次々と攻撃し、中伊勢を平定していきます。
そしてある程度片がついたとみるや、旧姓に戻して織田信包(おだのぶかね)と名乗りました。

兄の信長の死後は豊臣秀吉に仕え15万石を得ますが、すぐに転封となり代わりに富田知信(とだとものぶ)さんが6万石で入城します。

知信さんの子の信高さんは、関ヶ原の合戦の際に東軍に所属。
それにより西軍約3万の大軍に攻められ、籠城して奮戦するものの多勢に無勢であえなく開城します。
しかしその後の本戦で東軍が勝利をおさめたことにより、その時の戦功を評価され6万石が与えられると再び津城の城主に返り咲きました。

さすが家康さん、素晴らしい論功行賞!…と思ったのも束の間、1604年には宇和島へ移ることが決まり、津城はあの築城の名手と呼び声高い藤堂高虎(とうどうたかとら)さんの所領となりました。

藤堂高虎さんは、伊勢、伊賀、伊予合わせて22万石の大名として伊賀上野城へ入り本城としますが、平素はこの津城を居城としました。
大坂城の豊臣家を意識してのフォーメーションだと思われますが、なかなか贅沢な城使いです。

1611年、高虎さんは築城の才能をさらに発揮すべく津城の大改築を実施。
これにより津城の中身は一変します。
もう、この頃になると高虎さんの築城の経験と知識は半端なくまさに名人の域。
建造物というよりも作品という感じですね。
まさにそんなお城の規模拡大もさることながら、城下町の整備にもしっかりと力を注いでいきました。

高虎さんは、大坂夏の陣後にもさらに増されて大大名の地位を確立します。
その石高は32万石に膨れ上がり、その勢いのまま二代目にバトンタッチしました。
二代目はかなりのプレッシャーです…。

しかしその後の歴代藩主も藩祖である高虎さんにならって城下町の育成につとめたことで津の町は急速に発展を遂げていきます。
伊勢神宮への参詣客も津の町の繁栄ぶりを全国に伝え「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」と宣伝されるようになりました。

以後、藤堂家の子孫が藩主として継続し、明治維新を迎えていくことになります。