津和野城の歴史

●城あそびポイント

①城内一の人質曲輪の高石垣をみてみよう
津和野城で一番の高石垣がみられる人質曲輪。美しい勾配をもつ高石垣はかなりの映えスポットです。


②さだまさしさんの「案山子」の原風景となった眺望を楽しもう
案山子の歌詞にある「城跡から見下せば蒼く細い河 橋のたもとに造り酒屋のレンガ煙突」という部分。本当に津和野城から今も同じ景色をみることができます。
ぜひ「案山子」を聴きながら見てもらいたい。


③本丸から天守台を見下ろしてみよう
かつて三層の天守が築かれていたといわれる、津和野城の天守台。
その場所は、全国でも珍しく本丸よりも低い位置にあるため、見下ろしてみることができます。

●津和野城の歴史

山陰の小京都と呼ばれる島根県鹿足郡にある津和野。
そんな風情のある町の形成に大きな役割を果たした津和野城がこの地に城が築かれたのは、鎌倉時代末期の1295年といわれています。
別名は「三本松城」。

西石見地方の地頭として赴任した吉見頼行さんが、津和野盆地の南西にある霊亀山の南側から築城をはじめました。

頼行さんは、木曽野の東にある一本松という場所を築城する場所と決め、そこから山頂に向かって徐々に拡張していきました。

1295年から築城は開始されたといわれていますが、頼行さんは完成を見ることなくその間におこなわれた戦いで討死してしまいます。
2代目は息子の頼直さんが跡を継ぎ、約30年という長い年月を費やしてやっとの思いで城を完成させました。

現在この城は、「津和野城」という名で通っているんですが、築城当時は「三本松城」と呼ばれることが多かったため、これ以降は「三本松城」で統一し紹介させていただきます。

三本松城の名前の由来ですが、着工から竣工まで30年かかったことから、初めの一本松といわれた土地に松を二本増やして「三本松」。
これを城の名前にしたようです。
ほんとかどうか疑わしいくらい、ちょっと無理がある命名です。

城が完成した2年後の1327年。
二代目の吉見頼直さんは、居館としていた木曽野館から三本松城に移ります。

これ以降、三本松城には吉見氏が14代と長きにわたり受け継ぎ、居城としてきました。

吉見氏の時代の三本松城の大手道は、城のある霊亀山西側の喜時雨(きじう)という地区に繋がっていて、ここに吉見氏の居館があったといわれています。

吉見氏は、7代の成頼さんの時代まで居館のあった喜時雨の城下町を拡大していきますが、その間は比較的平和な時代として過ごすことができました。

しかし、時代は戦国の世に突入。
周防の大内氏、出雲の尼子氏が次第に勢力を拡大し、周辺の豪族を従えていきます。
成頼さんは、母方の血筋にあたる大内氏に従いますが、11代正頼さんの時に、大内義隆が家臣の陶晴賢に攻められ自害(大寧時の変)。

ここをターニングポイントとして、正頼さんは三本松城で数々の戦いの歴史かを刻んでいくことになります。

1553年、吉見正頼さんは「大寧寺の変」で大内義隆さんを討った陶晴賢さんに対し挙兵します。
ちなみに正頼さんの奥さんは、義隆さんのお姉さんにあたります。

陶晴賢さんは大内義隆さんの養子となる義長さんを奉じて、通説では1万5千の大軍で三本松城へ進軍し包囲しました。

対する三本松城に立て籠もる吉見軍は、村人を含め1200名程度だったといわれています。

同年4月には大内軍の総攻撃が開始されるものの、吉見方は何とか城を守り切り防衛に成功。
その後も12回に及ぶ攻撃が続きますが、三本松城は陥落しませんでした。

吉見正頼さんの采配もさることながら、実際にお城に足を運ぶと地形を巧みに生かして城が築かれていたことが陥落しなかった大きな要因だったことも実感いただけると思います。

大軍の大内軍を相手に長く三本松城で籠城戦を続けてきた吉見軍ですが、次第に問題となってきたのが兵糧の不足。

また攻め寄せる大内軍も主力軍が三本松城に釘付けになっていたことから、安芸の毛利元就さんの動向を警戒する必要があったため、両軍徐々に和睦へと動いていきます。

9月になると、正頼さんの息子の亀王丸君を人質として送ることを条件に和睦が成立。
三本松城は、支城の2城とともに長い籠城戦を耐えきりなんとか落城を免れました。

こうして三本松城は、中国地方における屈指の名城と呼ばれることになりました。

三本松城は関ヶ原の戦いが終わると、その翌年に宇喜多詮家さんが石見国の浜田から3万石の知行を受けて入城します。

この頃には、現在の呼び名でもある「津和野城」という名で呼ばれていたようです。

詮家さんは宇喜多忠家さんの子で、「備前宰相」と呼ばれた宇喜多秀家さんとは従兄弟にあたる間柄です。

後に「宇喜多騒動」と呼ばれるお家騒動で主君である秀家さんと対立し、関ヶ原の合戦でも東軍に属しました。
戦後はその功績により、石見国浜田2万石が与えられました。

そして津和野に入って間もなく、詮家さんは豊臣家の滅亡につながる「大阪の陣」にも出陣し、その功によって2万石が加増され4万石の大名となりました。

その後、詮家さんは坂崎直盛と名前を改めます。
「宇喜多」という名を嫌った家康さんから名を改めるよう命じられたといわれています。

坂崎直盛さんは、津和野城入城後すぐに石垣を多用し、近世城郭へと大改修を行います。

お城の東側の吉見時代の搦手には大手門を建て北東の方面には出丸、そして天守も新たに築かれたといわれています。

しかし、直盛さんは1616年に後に「千姫事件」といわれるトラブルを起こし、自害もしくは家臣に殺されたため、坂崎家は改易となってしまいました。

ちなみに直盛さんが起こした「千姫事件」ですが、様々な説があり本当のところはよくわかっていません。

事件の内容は、将軍の娘である千姫を奪おうとした計画が幕府にバレて、どうしようもなくなって自害したというもの。

理由となる代表的な説は、大阪夏の陣で徳川家康から、千姫を無事救出できたなら嫁にするという約束を反故にされたことに腹を立てた説。
もう一つは、千姫の嫁ぎ先を探すよう依頼されていたにも関わらず、他で勝手に嫁ぎ先を決められてしまったことに腹を立てた説。

結局は直盛さんのそんな想いは届くことなく、千姫さんは当時男前と評判の本多忠刻さんに輿入れとなりました。

直盛さんが改易になった後は、因幡国より亀井政矩さんが津和野城に入城。
その後もこの亀井氏が11代にわたり津和野城主としてこの地を統治しますが、明治の廃藩置県により城は廃城が決まり解体されました。