松本城の黒歴史「加助騒動(享貞騒動)」
今回は松本城の番外編となる、松本城の「黒歴史」をご紹介したいと思います。
松本城にも様々な伝説や逸話が残っていますが、今回は「加助騒動(享貞騒動)」を取り上げてお伝えします。
加助騒動とは、1686年に多田加助(ただ かすけ)さんという元庄屋を筆頭にして、松本藩で起こった百姓一揆です。
当時の城主は、信濃松本藩の三代目城主、水野忠直(みずのただなお)さん。
松本藩領にある安曇野では、例年に比べて不作だったにも関わらず、松本藩では年貢を3斗から3.5斗へ引き上げられるといった理不尽な決定がなされました。
周辺の藩では2.5斗が年貢の基準だったので、これはおよそ他藩の1.4倍の重税です。
さらにノギの除去というかなり手間のかかる作業まで課せられたため、農民にとってはより大変な状況におかれてしまいました。
限界を迎えた安曇郡の元庄屋、多田加助さんは中心同士11名と密談を重ね、松本郡奉行に対して、年貢を1俵あたり2斗5升への減免等を求めた5か条の訴状の提出を決意します。
しかし、この計画は思いもよらず藩内に広く伝わってしまい、その時には約1万ともいわれる百姓が松本城周辺へ押し寄せるような大騒ぎとなってしまいました。
びびった城代家老は要求をのむことを約束し、集まった群衆にその場を引き取らせますが、藩主の裁可を得た上であらためて約束を反故にします。
そして、加助さんら中心人物を含め、一揆の関係者を次々と捕縛していきました。
このようにして、最終的には一揆に加担したものの内8名が磔、20名が獄門の極刑に処されたといわれています。
加助さんは磔にされる際、刑場に集まって涙する領民たちに向かい、「今後年貢は5分摺2斗5升だ」と最後まで自らの想いを叫びながら刑死したといわれています。
磔にされた加助さんが松本城天守閣を睨んだ瞬間、大きく傾いたという伝説まで残っていて、加助さんのその強い無念さが伺えます。
この騒動の後、加助さんの要望した2斗5升までは年貢の減免は認められませんでしたが、元通りの3斗に引き下げられ、ノギ取り作業も免除されることになったということです。