石川県能登半島にある城跡「末森城」をご紹介します。
この城の近くには、日本で唯一車で海岸の波打ち際を走ることができる道路「なぎさドライブウエイ」があります。
天気の良い日に車を走らせると最高な気分が味わえますので、ぜひ機会があれば末森城とセットでお楽しみください。

末森城はあまり聞いたことがないという方も多いお城だと思いますが、皆さんお馴染みの原哲夫さんの漫画「花の慶次ー雲のかなたにー」でも、戦いの舞台として登場するお城なんです。
「花の慶次」ファンであれば、一度は行ってみたいと思ったお城ではないでしょうか。
「末森(すえもり)」という呼び名は、お城が建っていた末森山からきていますが、「信長公記」などの資料では、「末守」や「末盛」とも記されています。
築城は、土肥親実(どいちかざね)さんという能登畠山氏の地頭職だった人物であるといわれていますが詳細は不明です。
1577年に越後国の上杉謙信(うえすぎけんしん)さんが侵攻してきた際に降伏しますが、その後も親実さんはこの城の城主としてこの地を治めました。
上杉軍との戦いが終わりほっとしていた親実さんでしたが、3年後の1580年には越前・加賀の一向一揆を鎮圧し飛ぶ鳥を落とす勢いの織田軍の柴田勝家(しばたかついえ)さんが侵攻してきます。
親実さんは大軍の織田軍を前に城を守りきれず降伏しますが、これまでの支配の手腕を高く評価されたのかそのまま末森に置かれます。
その後、加賀をおさめる前田利家(まえだとしいえ)さんの与力となったことで、それ以降末森城は前田家が支配することになりました。
利家さんからも与力として期待された親実さんは、利家さんの妻であるお松の方の姪の「末守殿」を娶り、前田家との結びつきを強めていきます。
織田家の手に移った「末森城」ですが、本能寺の変をきっかけに北陸の勢力図が一変することでさらに大きな転機を迎えます。
主君である織田信長(おだのぶなが)さんの弔い合戦「山崎の戦い」において、その主力として戦い勝利をおさめた羽柴秀吉さんが織田家中で一気に勢力を拡大しました。
秀吉さんは、清洲会議の後に柴田勝家さんと争った「賤ヶ岳の戦い」で勝利すると、柴田方だった旧交の前田利家(まえだとしいえ)さんに急接近すると、そのまま説得し味方に引き入れることに成功します。
ところが、そんな秀吉さんに対抗すべく兵を挙げたのが、富山城の佐々成政(さっさなりまさ)さんです。
同じ織田家臣団の同輩だったこの両者の熾烈な戦いが、この北陸の地においてついに始まります。
末森城は、加賀・能登・越中を結ぶ要衝の地であることから、両者ともにここはがっちりとキープしたいところ。
最初に動いたのは、佐々成政さん。
1万5千の大軍を率いて末森城へ襲いかかります。
対する末森城の守将は、前田家家臣、奥村永福(おくむらながとみ)さん率いるわずか500名。
圧倒的な兵力差を前に奮戦するも、ほぼ力尽きもはや落城かと思われたその時、援軍として駆けつけた利家軍が騎馬で「なぎさドライブウェイ」を進み、末森城を襲う佐々軍の背後を奇襲します。
これにより佐々軍は総崩れとなり敗走。
本拠地の富山城を目指して退却することになりました。
佐々軍からすると、前田軍は海から進軍してきたのか!?と錯覚してしまうような驚愕の奇襲攻撃だったのでしょうか…。
車でも走れる固い砂浜の「なぎさドライブウエイ」。
その特徴を活かして、騎馬を進軍させることで奇襲を成功させた前田利家さん、あっぱれです。
そして気になるのは、落城寸前だった末森城。
どれくらい落城寸前だったかというと、あと数メートル佐々軍が歩を進めていたら全滅というレベルでした。
現地に行くとわかりますが、二ノ丸から細い坂を数メートル登ればそこはすでに本丸。
その二ノ丸まで落とされていたというんですから、首の皮一枚繋がった状態といったところでしょうか…。
最後まで奥村永福さんが降伏せずに城を守り切ったことにより、その後前田家による能登・加賀国統治の基礎がスムーズに築かれました。
しかし末森城は、1615年の一国一城令により廃城となり、主要な門などは前田家の居城の金沢城へ移築されたといわれています。