●城あそびポイント
①二ノ丸からの中海までの眺望を楽しもう
月山の麓を流れる飯梨川は、日本海に通じる中海に繋がっています。
この間の海道は、物資の往来が盛んだった当時の様子を想像しながら楽しめます。
②山中鹿之助の供養塔と並ぶ堀尾吉晴の墓にお参りしよう
月山富田城内には尼子氏の英雄「山中鹿介幸盛」の祈月像があります。
その山中鹿介の供養塔とともに、関ケ原の戦いの後に城主となった堀尾吉晴の墓が並び建てられています。山中鹿介と堀尾吉晴との間にどのような関係があったのかと、ふと思いをはせられる場所です。
③「幸盛祭」に参加してみよう
戦国武将山中鹿介を称える行事として長く続けられてきたイベント「幸盛祭」。
麓から山頂へ駆け上がるマラソンやウォーキングに参加してみると、一生の思い出として刻まれるかも。
山頂には、古来より信仰されてきた「勝日高守神社」があります。

●訪問前に読んでもらいたいおすすめ書籍
「尼子氏の城郭と合戦」 著者:寺井毅

●月山富田城の歴史
戦国期に「十一カ国太守」と呼ばれ、中国地方で権勢を振るった尼子経久(あまごつねひさ)さんが居城とし難攻不落と呼ばれた城、「月山富田城」。
そんな月山富田城は、現在の島根県安来市にあります。
富田城が築かれた時期は、平安時代という伝承が残っていますが定かではありません。
室町時代、守護として広大な土地を支配した山名氏。
しかし山名氏は幕府に背き「明徳の乱」を起こします。
その際に幕府軍に従軍し戦功を挙げた京極高詮(きょうごくたかのり)さんが、その後守護として山名氏の領国だった出雲を治めることとなりました。
京極氏はもともと近江に領国があったため、飛び地の出雲へは守護代として家臣の尼子持久(あまごもちひさ)さんが派遣されます。
この持久さんの孫が後に「十一カ国太守」と呼ばれることになる尼子経久(あまごつねひさ)さんとなります。
経久さんの代となると、出雲の国人との結びつきを強め、次第に室町幕府の命令を無視するなど、独自に権力基盤をつくっていきます。
しかしそれが裏目に出た結果、経久さんは周囲の国人たちから反発を受けることとなり、居城を包囲された後に城を追われたといわれています。
富田城には経久さんの対抗勢力であった塩谷氏(えんやし)が入城することになりました。
一度は失脚した経久さんですが、1486年に不意をついて塩谷掃部介(えんやかもんのすけ)さんを討ちとると富田城を奪還します。
経久さんは富田城に入城すると、すぐに城の拡張工事を開始し長期支配の基礎を着々と築いていきました。
しかし、この富田城を拠点に領土を広げていこうとする矢先、将来を期待されていた嫡男の政久(まさひさ)さんが戦死してします。
さらにその後、自身の三男でもある塩谷興久(えんやおきひさ)さんが反尼子を鮮明にしたことで内紛が勃発。
4年をかけてなんとかそれを鎮圧するものの、経久さんにとっては身内を失う大きな痛手となりました。
1537年、家督を孫の詮久(あきひさ)さんに譲り、自らはその後見となります。
一度は大内氏に奪われていた石見銀山を奪取し尼子の勢いを高めるものの、その4年後月山富田城の城内で経久さんは84歳の生涯を閉じました。
経久さんは、北条早雲と並ぶ下剋上の典型で、毛利元就や宇喜多直家と並び「中国の三大謀将」と称されている一方、家臣に対しては非常に気を使う優しい人物であったとも伝わっています。
尼子経久(あまごつねひさ)さんの跡を継いだ詮久(あきひさ)さんは、名を晴久(はるひさ)と改名。
大内、毛利といった大勢力との激闘を繰り広げつつも、八カ国を領有した尼子氏はこの時に最盛期を迎えます。
そんな中、晴久さんはかねてから確執のあった叔父の尼子国久(あまごくにひさ)さん、誠久(さねひさ)さん親子が率いる新宮党(しんぐうとう)を粛正し、尼子宗家の支配基盤をさらに固めるます。
しかしそんな晴久さんも間もなく月山富田城で49歳の若さで急死すると、その跡を子の義久(よしひさ)さんが継ぐことになりました。
義久さんの代となると尼子氏は次第に勢力の衰えをみせ、毛利・大内連合軍からの猛攻撃を受けて苦しい戦いをしいられるようになります。
そして1565年、月山富田城は毛利元就率いる大軍に包囲され、遂に総攻撃が開始されます。
しかし月山富田城の守りは堅く、まだ城兵の士気も高かったこともあり、毛利軍は一時攻撃を中止し兵糧攻めへと切り替えました。
結果、城内の兵糧は欠乏し重臣の投降も次第に増加。
これにより義久さんは開城を決意し、毛利氏に降伏しました。
月山富田城は毛利氏の手に渡り、義久さんは捕らえられた後、幽閉されるものの、その後は毛利元就(もうりもとなり)さんの孫である輝元(てるもと)さんの代で客分として迎えられ安芸国に居館も与えられたそうです。
毛利氏は月山富田城を手に入れると、その城代として天野隆重(あまのたかしげ)さんを任命。
1566年には、毛利元就さんの五男の元秋(もとあき)さんが入城し、その後も毛利氏の支配は続きました。
1600年の関ヶ原の合戦で西軍が敗れ毛利氏が萩へと転封になると、東軍として戦功のあった堀尾吉晴(ほりおよしはる)さんに出雲国を与えられ月山富田城に入城しました。
その後、吉晴さんはこの月山富田城に約11年間在城したといわれています。
吉晴さんの子の忠晴(ただはる)さんの代になると、拠点を松江に移すとともに新たに松江城を築城します。
この城の完成に伴い、尼子氏の居城として長く歴史の表舞台に立ち続けた月山富田城は廃城となりすべて解体されることになりました。