●城あそびポイント
①本丸から対馬方面の海を眺めてみよう
この城から朝鮮半島を目指した大船団がこの湾を覆い尽くしていたことを想像するだけで妄想が広がります。

②朝鮮出兵に参陣した武将の陣跡を巡ってみよう
最盛期には約10万人という人口を持つまでになった名護屋城城下町。
そこには朝鮮半島に出陣準備に備え、多くの戦国武将が陣所を造りました。
その内65ヶ所が遺構として残されています。
当時の陣所の配置を観ながら巡ってみるといろんな発見があって面白いです。

③本丸に埋められた豊臣時代の石垣を観てみよう
本丸では、一度築かれてから拡張のために埋められた石垣が見学できるよう整備されています。当時の積まれた状態の石垣をぜひみてみてください。

④名護屋城博物館で名護屋城の歴史を学んでみよう
名護屋城に隣接する形で、名護屋城博物館が建設されています。
ここでは、名護屋城に関する貴重な展示品を観れるほか、名護屋城を見学の際に復元されたCGを観れるようスマートデバイスの貸し出しも無料で行われています。
ぜひ名護屋城とセットで訪問してみましょう。
肥前名護屋城のVRアプリのご紹介動画は下記から観ていただけます。
肥前名護屋城VR【現地体験型VR観光アプリ「ストリートミュージアム®」】ご紹介映像 – YouTube
●肥前名護屋城の歴史
秀吉の朝鮮出兵、「文禄・慶長の役」の舞台となった名護屋城跡。
佐賀県唐津市にある、玄界灘を望む海岸線の小さな湾にあるお城です。
実際にこの天守台跡に立つと天気が良い日は遠く対馬がみえ、すぐ近くに朝鮮半島を感じられる場所です。
海が目前ということもあり、かなり風が強い印象がありましたが、このあたり一帯に全国の大名が陣を布いていたことを想像すると、スケールの大きな城だったことがよくわかります。

そんな名護屋城ですが、もともとこの場所には既に松浦党と呼ばれる名護屋氏の居城、垣添城がありました。
しかし、1591年8月に豊臣秀吉が大陸への進攻のための前線基地として定め、それに応じた規模にするべく大掛かりな拡張工事を行います。
工事には、九州の諸大名が担当し、同年の10月に着工を開始。
1日4〜5万の人夫を動員しての突貫大工事により、5ヶ月後の翌年2月に完成したといわれています。
すさまじいスピードでの完成ですよね。
そして完成した名護屋城は、波戸岬の丘陵を中心に170,000平方メートルにわたる規模となり、五重の天守や御殿もつくられました。
また周囲約3キロメートル内には、約120ヵ所にものぼる陣屋や諸侯の屋敷が建ち並び、城の周囲には商家や旅籠、遊郭等営業を開始。
まるでひとつの町といえる規模だったようで、最盛期には人口が10万人を超えるほど繁栄したとか…。
今の10万人の人口というと、大阪府泉佐野市がこのくらいの人口規模です。
諸説ありますが、1,600年頃の日本の人口が1,500万人ほどといわれているので、全人口の6%がこの肥前名護屋に集まったということですからすごい規模感です。
「肥前名護屋城図屏風」には五層七階建ての豪壮な天守が描かれていて、その高さは石垣から測定して約25〜30mあったと想定されています。
今でいうと8階建てのビルと同じくらいの高さですので、相当な高さだったことがわかります。

朝鮮への遠征軍は、約20万人といわれています。
1592年の3月上旬から4月中旬にかけ名護屋に集結をはじめ、先発隊の小西行長らの九州勢約5万1千余の兵船は、5月上旬に名護屋浦を出発。
きっとこの見渡す限りの海を埋め尽くすほどの大船団だったはず。
天守は江戸時代に入って間もなく、この地が唐津藩に領有された後に天守台の石垣もろとも徹底的に破却されました。
ほんとに見事なまでに破壊し尽されています。

江戸時代前半に勃発した大一揆「島原の乱」の影響から、一揆の立て籠もりを警戒しての対策だったといわれています。
この城の天守から秀吉は、中国大陸へ渡り明国制圧の夢を描いていたことを想うと浪漫を感じます。