●城あそびポイント
①天守で広島城について学んでみよう
広島城の天守は、広島城の歴史や築城する際に必要となった技術について学んでいただける博物館のようになっています。
貴重な当時の展示品も観ることができ、最上階からは周囲の眺望も楽しむことができます。

②福島正則が幕府に無断修理を咎められ、取り壊した石垣をみてみよう
関ケ原の戦い後、広島城主となった福島正則は洪水被害を受けた城の修復を無断で行ったことで幕府より改易の沙汰を受け転封となりました。
幕府の咎めを受けた福島正則が、修復前のような石垣に取り壊しをさせた石垣が本丸の北東部分に現在もみることができます。
②太鼓櫓で太鼓をたたいてみよう
櫓の2階には時間を知らせる太鼓が置かれていたといわれています。
現在は訪問者が触れられるように一階部分に移され、太鼓を叩くことができます。

●訪問前に読んでもらいたいおすすめ書籍
「広島ご城下歴史たび」
著者:原田邦昭 南々社
●広島城の歴史
広島城は、広島市を流れる太田川の河口に発達した中州に築かれた中国地方最大の城郭でした。
そしてあまり知られてはいませんが、1931年に天守閣が一度「国宝」にも指定された城でもあります。
この城を築いたのは、最盛期に中国・四国・九州にまで版図を広げた毛利氏です。
この毛利家を西日本の一大勢力にまで育て上げたのが、毛利元就(もうりもとなり)さんです。
元就さんは、中国山地の盆地のひとつである吉田荘の地頭から、一代にして中国、四国、九州におよぶ9カ国を平定した戦国きっての謀将であり、三人の息子に「三子教訓状」を遺した人物としても有名です。
その「三本の矢の教え」は、実はこの文書が元となってできたといわれています。
ちなみに広島のサッカーチーム「サンフレッチェ広島」のクラブ名は、この「三本の矢の教え」を造語にしたものだということです。
サンフレッチェファンでしたら、きっとみんな知っているはず…ですが、わかりやすく説明すると『日本語の「三」とイタリア語で「矢」を意味する「フレッチェ」を繋げた』という感じ。
広島城はそんな偉大な元就さんの跡を継いだ孫の輝元(てるもと)さんによって、1591年にこの地に築かれました。

それまでの本拠地として拡充していた吉田郡山城から、かなり大きな引っ越してきたわけです。
吉田郡山城は堅固な山城であることに加え、山陰と山陽を結ぶ重要な場所にあったことから領国防衛や領土の拡大を行うのにはもってこいの場所でした。
しかし輝元さんの時代になると、このような山あいの場所は逆に政務や商業には不便だったので、さらなる発展を期待するには大きな城下町の形成が必要でした。
輝元さんは考え抜いた末、当時毛利家が領国としていた中央にあり、水陸両用の交通の要衝であった瀬戸内海に面した新しい城郭と城下町をつくることを計画しました。
この計画にあたっては、様々な説はあるようですが、豊臣秀吉(とよとみひでよし)さんの招きで上洛した際にみた聚楽第や大坂城から、新しい城と城下町をつくるを決意をしたともいわれています。

広島の地は、中国山地から流れる太田川河口に開けたデルタ地帯。
そこに発達した中洲は当時「五箇の荘」と呼ばれていました。
ここに城を築き城下町を形成するためには、「島普請」と呼ばれる土地造成が必要で、それは非常に困難で大規模な工事を意味していました。
当時の技術で川や海の中に城を築くようなものですから、その大変さは容易に想像がつきます。
1589年に入り広島城の築城は開始されますが、構造は大坂城、縄張りは聚楽第を参考にしたといわれています。
その縄張りには、築城の名手とも呼ばれていた名軍師、黒田官兵衛も参加していたというから、どのようなアドバイスがなされたのか気になるところです。
そして、ついに五層の大天守と45棟の櫓を連ねた壮大な城郭が完成し、輝元さんは意気揚々と入城します。
家臣たちも続々と割り当てられた土地に屋敷を建て、呼び寄せた商人たちによって城下町はみるみるうちに形成され活性化しました。
その後「文禄の役」を指揮するために肥前名護屋城へ向かう豊臣秀吉さんが、その道中に新築の広島城へ立ち寄り、その規模と壮大さに感嘆したといわれています。
しかし、一方で「水攻めをされたらひとたまりもない」といったようなダメ出しもあったともいわれ、輝元さんは築城の際にアドバイスを受けていた黒田官兵衛(くろだかんべえ)さんに対し憤慨したという話も残されているようです。本当かどうかはわかりません…。
1599年に広島城に関わる全工事が完了しますが、現在の「広島」という名はこの頃に付けられたといわれています。
豊臣秀吉の死後、五大老の一人上杉景勝さんが上洛を拒否したことを理由に、徳川家康さんが会津へ向けて軍を動かすと、輝元さんは西軍の総大将として決起し大坂城へ入りました。
しかし関ケ原において東軍を指揮した徳川家康(とくがわいえやす)さんが西軍の石田三成さんらに勝利すると、総大将となっていた毛利氏は領土を防長二州のみに削られて萩へと転封となり広島城を泣く泣く退去します。
その後この広島城には、関ケ原の戦いで大きな戦功をあげた福島正則(ふくしままさのり)さんが49万石の城主として入城。
正則さんは早速穴太衆を雇い入れ、毛利氏時代にはまだ不十分だった城の整備と城下町づくりを行っていきます。
城の北側を通っていた西国街道は城の南側を通るように付け替え、さらに雲石街道を整備したことにより城下町は拡大しました。
しかしこれはやり過ぎだと徳川家康に怒られ、正則さんは謹慎処分を言い渡されてしまいます。
さらに悪いことは続き、洪水により破損した石垣の修理が無届けでの改築したことで、遂に武家諸法度違反の罪に問われ改易処分となってしまいました。
そして正則さんは、信濃国の川中島へと流されていきます。
1619年、正則さんとの入れ替わりで、広島城には紀州の浅野家が42万6千石が与えられ入城します。
この時の城主は、浅野長晟(あさのながあきら)さん。徳川家康さんの女婿です。
広島城は、以後明治維新までの約250年間、この浅野家12代の居城として続いていきました。
明治維新では、広島城は「広島鎮台」とされ、1894年に日清戦争が勃発すると城内には広島大本営が設置されたことで、明治天皇も広島に行幸されます。
第7回帝国議会も広島で召集されたことで、短期間ではあるものの広島は臨時首都としても機能しました。
その後、その歴史的価値を見出されて1931年1月に天守は国宝保存法の国宝(旧国宝)に指定されます。
しかしその後、日本は太平洋戦争へと突入。
それまで江戸時代からの多くの建物が残っていた広島でしたが、1945年8月6日午前8時15分、アメリカ軍による広島市への原子爆弾投下により広島城は倒壊・焼失しました。
戦争で失われた歴史的建造物は多くありますが、「国宝」に指定されていた広島城天守もその一つに数えられることは忘れないでいてほしい。