岡城の歴史

●城あそびポイント

①大手門を支えた巨大な石垣と珍しい「かまぼこ石」を見てみよう
岡城は石垣が魅力の素晴らしいお城です。
入口となる大手門の石垣は見事で、最初に目を奪われてしまうスポットです。
大手門へ登る手間の階段には、石垣の上にかまぼこの形をした珍しい石をみることもでき、訪問者の目を楽しませてくれます。

②三の丸の高石垣を眺めてみよう
岡城といえば、三の丸から見る高石垣が有名。写真映えもする絶好のスポットです。
「地獄谷」と呼ばれる険しい谷に面して積み上げられていますが、その高さに驚かされます。

③滝廉太郎の銅像と記念撮影
岡城の二ノ丸には、滝廉太郎の銅像が建てられています。
滝廉太郎は、幼少期をこの竹田の地で過ごし、岡城をイメージして有名な「荒城の月」を作曲したといわれています。

 

●訪問前に読んでほしいおすすめ書籍
「城の月-志賀親次と豊後・吉利支丹王国‐」
  著者:悠木一雅 文芸社

 

●岡城の歴史

九州の中央部に位置し、難攻不落の名城と謳われた岡城。
現地に赴くと、想像を超えた場所に立派な石垣群に驚かされる城です。


岡城は、現在の大分県竹田市にあります。

築城は、平安末期の1185年。
この地を領有していた緒方三郎惟栄さんが始まりといわれています。
しかも築城の理由が、源頼朝さんに追われた牛若丸こと源義経さんを匿うためというからなんだか浪漫がある話ですよね。

その後は様々な説はあるものの、南北朝時代に後醍醐天皇の指示で大友氏の一族の志賀貞朝さんによって更に拡張され、現在の「岡城」という名で呼ばれるようになったとも伝えられています。

戦国時代に入ると、主家の大友家で家督を巡るお家騒動「二階崩れの変」が勃発。

当時、岡城の城主だった志賀親守さんは、当主大友義鑑さんの嫡男、義鎮さんの家督相続をしっかりサポート。
それにより、子の親度さんに家督を譲った隠居後も義鎮さんの側近として活躍します。

ちなみにこの志賀氏は、田原氏や詫摩氏と並ぶ大友三家と呼ばれる大家の一角を担うお家柄です。

この義鎮さんが、後に海外貿易で得た大きな経済力や優れた家臣団、そして巧みな外交により九州に大きな版図を築きあげた大友宗麟さんです。

しかし、宗麟さんが嫡男の義統さんに家督を譲ると、親度さんは義統さんと不仲になりました。

そんな最中の1578年、島津家との間で大友家を大きく揺るがす激戦「耳川の戦い」が起こります。

耳川の戦いで敗戦し、多くの将兵を失った大友氏はその後急激に勢いを失い衰退していきました。。

そんな中、志賀親度さんは島津家家臣の新納忠元さんを仲介し内通。大友家に反旗を翻します。

1585年、島津氏は3万5千を超える大軍で豊後国へ侵攻。
岡城の城主は、親度さんの弟であり養子の志賀親次さんですが、大友氏に忠誠を尽くし約1,500の兵で岡城に立て籠もり徹底抗戦します。
島津義弘さんや新納忠元さん率いる島津軍は岡城に押し寄せますが、親次さんは少数の兵力で何度も島津軍を撃退しました。

そんな親次さんは、後に豊臣秀吉さんから褒状を受けただけでなく、敵方だった島津義弘さんからも「天正の楠木」と絶賛されたそうです。

あの「鬼島津」と呼ばれた猛将、島津義弘からこの一言がいただけるのはすごく名誉なことですよね。

しかし、1593年の「文禄の役」と呼ばれる豊臣秀吉により朝鮮出兵の際の不手際により、主君の大友義統さんが所領没収。
義統さんに仕えていた親次さんも同時に居城とした岡城を去ることになりました。

その翌年の1594年。
岡城には、播磨国三木城から中川秀成さんが7万4千石の所領かを与えられて入城します。

秀成さんは、摂津国茨木城主だった中川清秀さんの次男ですが、兄の秀政さんが、「文禄の役」の最中に鷹狩りを行い、その際に敵に包囲され討死。
中川家はその失態により危うく改易となるところでした。

しかし、父清秀さんが奮戦し討死を遂げた「賤ヶ岳の戦い」の武功をもとに許され、秀成さんが中川家の家督を相続し改易の危機を免れました。

秀成さんは岡城へ入城すると、3年をかけて大規模な修築を行い、その際本丸の南側には立派な御三階櫓が建てられたといわれています。

それと同時に城下町も志賀氏時代の範囲から拡張整備が施されました。


1600年の関ヶ原の戦いでは、西軍方の丹後田辺城攻めに家臣を派遣したものの、本戦終了後に徳川方につき、西軍方の臼杵城を攻撃した功績で所領はなんとか安堵されます。

秀政さんの子の2代藩主久盛さんですが、父方の祖父は中川清秀さんですが、実は母方の祖父である佐久間盛政さんという賤ヶ岳の戦いで中川清秀さんを討ちとった人物。
父方の祖父が母方の祖父に討ちとられたという、なんだか複雑な宿命を持って生まれた中川家の跡継ぎです。
お母さんは、そんな家に嫁いだため肩身が狭かったと思いますが、両名ともに名将といわれた戦国武将。
そんなお爺ちゃんを二人も持った久盛さんは、誇らしく思えたのではないでしょうか。

その後も岡藩中川氏は、代々この岡城の城主を務めこの地を統治しました。

しかし、1771年の8代久貞さんの時に城は大火に見舞われたことで、本丸や西の丸を含め城の大半が焼失してしまったといわれています。

その後、明治維新後の廃城令により、1871年から約1年をかけて城内の建造物はすべて破却されました。


しかし現地に足を踏み入れると、破壊され尽くした城跡だけをみても、この城が当時は石垣で造られた壮大な城だったことが実感できます。