今回は、石見銀山を守る城として中国地方の大勢力が奪い合った城、山吹城をご紹介したいと思います。
この山吹城は、島根県大田市の要害山城の山頂にあるのですが、整備はされているものの登り坂が思いのほか急で、登城に苦労しました。
そんな山吹城は昔から石見銀山を支配するための城として重要な役割を担ってきました。
ちなみに石見銀山、最初は「大森銀山」、江戸時代初期には「佐摩銀山」とも呼ばれ、時代によりその呼び名も変わり、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山でした。
当時の日本は、世界に流通する銀の約3分の1を産出していたと推定されており、その多くの部分をこの石見銀山からの産出量によって占めていたことになります。
そのような莫大な産出量を利用し大きな収益源として支配・管理していた城がこの山吹城です。
山吹城の歴史は、中国地方の覇権を争う大内、尼子、毛利の三つ巴の争奪戦そのものでした。
石見銀山は1309年頃に発見されたといわれ、周防・長門国の領主だった大内弘幸(おおうちひろゆき)さんによって銀山防衛の城として築城されたといわれています。
その後、大内家15代当主の大内義興(おおうちよしおき)さんが、博多商人の神谷寿貞(かみやじゅてい)さんと協力して銀山に灰吹法を導入させたことで、純度の高い銀の採掘量を増大させることに成功し、それを契機に築城させたという説もあるようです。。
1530年に石見の国人領主だった小笠原長隆(おがさわらながたか)さんがこの銀山を奪いますが、3年後には大内氏が奪回。
その際、山吹城の防備をあらためて強化しました。
しかし1537年、「11カ国太守」と後に呼ばれるようになった出雲の戦国大名、尼子経久(あまごつねひさ)さんが石見に侵攻しこの銀山を大内氏から奪い占領・支配します。
1539年には大内氏が再度奪還したものの、尼子氏が石見小笠原氏と手を組み銀山を再び奪取。
このように、その後も大内氏と尼子氏による銀山の支配を巡り激しい争奪戦が繰り広げられました。
1551年、周防国の守護大名の大内義隆(おおうちよしたか)さんが重臣である陶晴賢(すえはるかた)さんの謀反により攻められ自害するという「大寧時の変」が起こります。
晴賢さんは、義隆さんの養子となっていた九州豊後の大友義鎮さんの弟、大友晴英(おおともあるひで)さんを大内家の新当主として擁立することで大内家の実権を掌握するものの、毛利元就(もうりもとなり)さんに「厳島の戦い」で敗死してしまします。
この戦いがその後元就さんが中国地方での勢力拡大のきっかけとなり、石見銀山の争奪戦にも加わっていくことになります。
当時の山吹城守将は刺賀長信(さすかながのぶ)さん。
勢い盛んな毛利氏に臣従し1556年には山吹城と銀山は毛利氏の勢力下に入りました。
しかしその2年後には尼子晴久(あまごはるひさ)さんが山吹城奪還のため攻めてくると、城主の刺賀長信さんは戦いに敗れその場で自害しました。
銀山を独占できた尼子氏は、この戦勝に功のあった本城常光(ほんじょうつねみつ)さんを城主としその支配を任せます。
常光さんは石見国人でありながら、尼子家直臣と同じ好待遇を受けていたといわれていますから、尼子晴久さんの信頼のほどがうかがえますね。
毛利氏も負けじと翌年には再び山吹城奪還のために攻め込みますが、名将本城常光さんの前に敗退。
ところがその後、尼子氏当主の晴久さんが急死したことで、これまでの尼子氏有利な状況は徐々に失われていきました。
その後も続くこの両者の戦いの仲介をするべく将軍足利義輝(あしかがよしあき)さんが入り、尼子氏と毛利氏との和平交渉が行われました。
その際に、元就さんが提示した「石見不干渉」という条件に対し、晴久さんの跡を継いだ義久(よしひさ)さんは受諾したことにより、その立場を失った石見の尼子方の国人たちは大きく動揺します。
講和条件をうまく利用しようとする毛利元就さんは、ほとぼりが冷めるやいなや石見国へ侵攻を開始。
戦意の落ちた山吹城を大軍で包囲すると、城主の本城常光さんはやむなく降伏しました。
城が毛利方の手に渡ると、これまでをさんざん毛利軍を手こずらせた常光さんは元就さんの命により暗殺されたといわれています。
その後、山吹城には吉川元春(きっかわもとはる)さんの家臣の森脇市郎左衛門(もりわきいちろうざえもん)さんが入り、毛利家はその支配体制をより強固なものにしていきました。
しかし関ヶ原の戦いが終わり、西軍の総大将となっていた毛利氏が周防一国に大幅減封となると、石見銀山は幕府直轄領となり大久保長安(おおくぼながやす)さんが石見銀山検分役として山吹城に入ります。
長安さんは山吹城を改修して銀の精錬所を置きますが、翌年には大森代官所に拠点を移したことによりこの山吹城は廃城となりました。
銀山の坑道内は実際に見学することができ、採掘時に残された当時のノミの跡を数多くみることができます。
ただこの跡は、銀を掘る職人たちが自らの命を削った跡だともいわれています。
酸素が乏しく高湿度という環境の中で、粉塵や灯を燈す菜種油の煙を吸い続ける作業は、職人たちの身体に相当な負担を与えてきました。
この銀山で働く人の平均寿命は30歳ほどだったということですから、どれだけの重労働だったか想像できると思います。
山吹城本丸跡までの登山ルートは主に2つ。
いずれもかなりの心臓破りな山道でした。
石見銀山とセットで行かれる方は、事前の準備をして登城されることをおすすめします。