山中城の歴史

山中城の歴史と芸術的な障子堀

これまで、私の行ってみたいお城のトップ5に必ず入っていた山中城。
今回は、そんな山中城に行った時の感想を含め、その歴史とアーティスティックな障子堀を紹介したいと思います。

時は戦国時代、関東に大きな勢力を築いた後北条氏。
そんな後北条市の魅力のひとつに、土木技術の高さが挙げられます。
そんな技術が惜しげもなく生かされたお城のひとつにこの山中城も含まれます。
特にこの山中城のアーティスティックな障子掘を見た時の感動は、私にとってすごく大きなものでした。

山中城は、静岡県三島市の箱根山中標高600メートルの場所にあります。
築城年は、1558~69年と明確になっていませんが、北条氏康さんによって築城されたといわれています。

この城が築かれた目的は、北条氏の本拠である小田原城の西の防衛のため。

この時、後に「箱根十城」と呼ばれる城砦が整備されましたが、その中でも最重要拠点として位置づけられた根城だったとつたえられています。

城は東海道沿いの山なみを利用し、東海道を取り囲むようにつくられていま
す。
大手口は街道に向けつくられており、本丸、二の丸、三ノ丸のほか、出崎出
丸が設けられていました。
さらに高さ3メートルの土塁を築き、高さ8メートルに及ぶ空堀を周囲にめぐらすという堅城ぶり。すごい土木技術です!

山中城の一番の特徴は、なんといっても北条流築城術といわれる、「障子
掘」と「畝掘」。
山中城の西ノ丸は「畝掘」と「障子掘」によって完全に取り囲むようにつくられていて、その「畝掘」は底からの高さが約2メートルですから、無防備に落ちようものなら怪我します。

さらに西ノ丸の曲輪に入るには9メートルの高さをよじ登る必要があります。
加えて、この堀は火山灰が積もった関東ローム層を掘り下げてつくられているため、水分を含むと表面がヌルヌルと滑り一度落ちると、簡単には這い上がれないアリ地獄のような掘となっていました。

こんな状況で上から、鉄砲や弓矢を撃たれたり、石を投げられたりしたら、もう死を覚悟するしかありません。

下克上の代名詞「北条早雲さん」
早雲さんが地盤を築いた北条氏は、徐々に関東でその支配を強め巨大な勢力をつくりあげていきました。
しかし、3代目当主の氏康さんの死後、時代の流れと共にその状況も大きく変わっていくことになります。

4代目の氏政さん、そしてその息子の氏直さんは親子は、再三にわたり豊臣秀吉から催促のあった後陽成天皇の聚楽第行幸への列席拒否。
またその後、北条氏が惣無事令違反をしたとされた「名胡桃城事件」が起こり、北条家と豊臣家との関係決裂は決定的なものとなりました。

怒り心頭の豊臣秀吉さんは、後陽成天皇から節刀を授けられたことを大義とし、天皇の施策遂行者として小田原征伐の総動員を全国の大名にかけます。

そして、集まった軍勢のその総勢なんと21万人。

現代でいうと、1999年にGLAYが千葉幕張で「GLAY EXPO」を開催し20万人を動員しましたが、まさにそのレベル。
いや、当時の人口や交通機関などを考えると、この動員力は現代の比では全くありません…。

北条氏はそれに対抗するべく、豊臣軍の戦略や行軍を予測して小田原城の拡大修築をはじめたほか、八王子城の築城、山中城、韮山城とそれにつながる箱根山方面の城砦を中心に築城整備を進めていきました。

そして山中城には、北条一族の北条氏勝が玉縄城を出陣し入城し、城主である松田康長さん、松田康郷さんなどとともに総勢約4千が配置されました。
しかし、豊臣の大軍に対しても、広大な山中城を守るにもあまりに少ない人数だったといわれています。

一方豊臣軍は、豊臣秀次さんを総大将に徳川家康さんなど約7万の軍勢で山中城を囲みます。
それを見た北条兵の多くは、有利な場所で迎え撃つ籠城戦とはいえ、数における絶対的不利は感じずにはいれなかったのではないでしょうか。

1590年3月29日、ついに山中城の戦いの幕が切って落とされ、豊臣軍が山中城の依崎出丸へ突入を開始しました。

そこを守備するのは、援軍として駆けつけていた間宮康俊さんと間宮信冬さんの親子。

康俊さんはなんと御年73歳。
白髪首が敵に渡ることを恥じて、髪を墨で黒々と染めて駆け付けたとつたわっていますので、死を意識した強い覚悟が感じられます。

なんだか、木曽義仲さんとの戦いで討たれた平家の老将、斎藤実盛さんを彷彿とさせますね。

北条軍は少数ながら岱崎出丸~三ノ丸の間で徹底抗戦。
豊臣方では、一柳直末さんなど秀吉さん古参の有力武将も討死するなど、両軍凄まじい戦いが繰り広げられます。

しかし守備側の北条軍は、大軍による力攻めの前に次々と曲輪が落とされ、開戦からわずか数時間で山中城は落城しました。

北条氏勝さんは自害を図ろうとしたところを家臣に制止され城を脱出。
本拠である玉縄城へ戻り籠城しました。

山中城の城主、松田康長さんは戦死し、北条勢はこの戦いで約2000名が命を落としたと伝えられています。

豊臣方で、山中城本丸に1番乗りを果した渡辺勘兵衛が書いたと伝わる「勘兵衛水庵覚書」には、この戦いの模様が生々しく記されていますので、ご興味ある方はぜひ読んでみてください。