姫路城を築城したのは、赤松則村の次男貞範で、1346年に姫山に築いたことから「姫山城」と呼ばれていました。
姫山は、現在天守群の備前丸がある東側の丘で、この西側に鷺山がありました。
羽柴秀吉は、信長から播磨を与えられた際、西側の鷺山も取り込み、二つの丘を合わせて「姫路城」と名称を改めたといわれています。
下の写真は姫山と鷺山の間に設けられた三国堀で、羽柴時代の空堀の跡に石垣を築いた部分がみられます。

1580年1月、羽柴秀吉は、落城させた三木城を居城にして中国攻略をするつもりでいましたが、黒田官兵衛(くろだかんべえ)さんの進言により姫路城を譲り受けたといわれています。
秀吉さんは、その譲り受けた姫路城に改修し3層の天守も築きます。
その後は、城代として木下家定が姫路城に入り約16年城主を務めました。
1600年、関ヶ原の合戦で勝利を得た徳川家康(とくがわいえやす)さんは姫路の地を重視し、外様ではありましたが娘婿の池田輝政を三河吉田城から移して姫路城に入城させます。
播磨一国52万石が与えられ姫路城へ入った池田輝政(いけだてるまさ)さんは、幕府に配慮してか、築城にあたって秀吉さん時代の建物はすべて取り除き縄張りも新たにしました。
姫路城は1601年から築城が開始され、約9年後に完成します。
5層6階の大天守やそれに付属する小天守もつくられ、現在見られる姫路城の景観はこの時に出来上がりました。
姫路城の石垣には随所に巧みな石垣技法が見られますが、至るところに墓石、石棺、石灯籠といった石が積まれているところをみると、石集めにかなり苦労したことが想像できます。なかでも、乾小天守の北側には、石臼の一部分が積み込まれていてます。
「姥が石」と呼ばれ、羽柴秀吉築城の際に、城下に住む焼き餅売りの老婆が生活の糧となる石臼を献上したことで、この話は評判となり石集めがはかどったという伝説があります。その他伝説としては、姫路城建設の中心となった大工の棟梁である桜井源兵衛が、天守完成後に大天守が東方に傾いていることに気づき、それを恥じて天守閣より飛び降り自殺したという話も残されています。この傾きは事実だったようで、昭和の大修理において実際に東南に傾いていることが発覚したようです。原因は東南の石垣が天守の重さに耐えきれず沈んだことによる物質的原因があったようです。
姫路城は、本城や武士の邸だけでなく、町人の住む城下町も外堀内に包み込んだ「総曲輪」の構えでした。
秀吉さんが城下町をつくり、楽市楽座により税を免除し、商工業の招致と保護しましたが、池田輝政さんはそれを継承し推進しました。
播磨、備前、淡路などの領地も合わせるとその石高は100万石近くなり、輝政さんは「西国将軍」と異名をとるほどに出世しました。
しかし輝政さんが1613年に亡くなると、池田家は鳥取へと転封となります。
代わって、姫路城には桑名から譜代大名の本多忠政が15万石で入城。
その嫡子である本多忠刻の妻は、徳川家康の孫娘であり豊臣秀頼の正室でもあった千姫です。
千姫は大坂城が落城した際に城を脱出し、その後に本多忠刻さんの元へに輿入れしました。
しかし夫である忠刻さんが31歳の若さで病死すると、そのまま姫路を去ったことで千姫の化粧料10万石は没収されました。
本多氏は3代続いて転封となり、その後城主はめまぐるしく交代します。
遊女高尾太夫を身請けしたことで有名な榊原政峯(さかきばらまさみね)さんもその後の城主の一人です。
1749年には、これも徳川譜代の酒井氏が15万石で入城し、明治まで10代続き明治維新を迎えました。
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