大坂城の歴史

●城あそびポイント

①巨石ランキングを巡ってみよう
大阪城には、石垣にたくさんの巨石が使われています。
その多くは近隣の採石場の他、瀬戸内海の島々や遠くは九州からも運ばれてきました。
大阪城のそれらの巨石の大きさBEST10を探しながらまわるのも面白いです。

大阪城の石の大きさBEST10
第1位 蛸石(桜門桝形)
第2位 肥後石(京橋門桝形)
第3位 振袖石(桜門桝形)
第4位 大手見付石(大手門桝形)
第5位 大手二番石(大手門桝形)
6位:碁盤石、7位:京橋口二番石、8位:大手三番石、9位:桜門四番石、10位:竜石

②刻印石探してみよう
大阪城築城の際には、西国大名が中心になって石垣をきづいていきました。
その際に、自身の藩がつくった証として石に家紋や記号のような刻印を残しています。
そのような刻印石を大阪城の至る所で目にすることができますが、それらを探すことも楽しんでみてはいかがでしょう。おすすめは、天守西側の「隠し曲輪」です。
石垣の刻印石を真近でみることができます。
刻印石

③貴重な蔵の構造をみてみよう
大坂城にはいくつもの貴重な蔵をみることができます。
本丸には「金蔵」、西ノ丸には「煙硝蔵」が遺されています。
特別公開日には、内部の厳重な構造を観ることができますのでおすすめです。
「金蔵」には江戸時代、長崎貿易の収益金や西日本の幕府直轄地の年貢金、公用金が蓄えられたといわれています。
なんなら蔵の下も覗けますので、訪問時には見てみよう。


④人面石を見つけよう
大阪城本丸の北東の方角にある石垣には、「人面石」と呼ばれる魔除けのために埋め込まれたといわれる石をみることができます。
確かによくみると、人の顔のように見える…ような…。
どこにあるかわかりますでしょうか?
内堀を周遊する御座船に乗るとよく見えますよ。
※答え:写真中央あたりの黒い石



訪問前に読んでおきたいおすすめ書籍

「大坂城全史 歴史と構造の謎を解く」 ちくま新書
 著者:中村博司
      


●大坂城の歴史

大阪城のある場所は、上町台地という盛り上がった地形の北端にあたり、その下には淀川の本流が流れていて天然の要害でした。
5,000年前の縄文時代中期は、この上町大地を囲むように周りはすべて海で、この場所は半島のように海に突き出した地形となっていました。
歴史的にも海に沈んだことがない、地理的に安全な場所であることがことがわかります。

目の前の淀川をのぼれば京都にも繋がる交通の要衝であり、南は当時国内で最大の貿易港に発展していた堺の町が身近にある経済・軍事ともに重要な場所でもありました。

「信長公記」でも織田信長(おだのぶなが)さんが当時からこの立地を高く評価していることが記録されており、本能寺の変がなければ信長さんはこの地に大規模な城を築く予定だったそうです。

しかしそこには、それ以前に石山本願寺(いしやまほんがんじ)という立派な寺が建てられていました。

石山本願寺は、1496年に浄土真宗本願寺派中興の祖といわれる第8世宗主の蓮如(れんににょ)さんが上町台地からの眺望にひかれて隠居所として別院をつくったがはじめとされています。

その後、第10世宗主の証如(しょうにょ)さんが1532年に寺の本山を京都の山科からこの地に移し、その後急速に防備がかためられ大規模な要塞へと変わっていきました。

周囲には深い堀と高い塀、50にもおよぶ出城を築かれたこの寺は、戦国時代の代表的な寺内町となり、後に「石山本願寺」と呼ばれるようになりました。


ちなみにこの本願寺の本堂があった場所は、豊臣時代の天守跡地から堀を挟んだ東側の場所にあったといわれています。

そんな本願寺ですが第11世宗主顕如(けんにょ)さんの時代に、当時勢いさかんな織田信長(おだのぶなが)さんと10年に及ぶ激しいバトルを繰り広げます。

しかし、この長い抗争の末に顕如さんは力尽き信長さんに降伏。
この地を明け渡すために顕如さんは紀伊国の鷺ノ森へ退去しますが、その直後に原因不明の火災が発生し建物はほぼ焼失してしましました。
新居の引き渡しの際に全焼したような感じなので、信長さんとしてはかなりショックだったのではないでしょうか。

石山合戦終了後この城は、信長さんの重臣である丹羽長秀(にわながひで)さんに預けられます。そして一緒に四国の長曾我部氏を討つために準備をすすめていた織田信澄(おだのぶずみ)さんがこの城に布陣しました。
しかしそんあ矢先、京都で本能寺の変が勃発。
信澄さんは、信長さんを討った明智光秀さんの娘婿だったことから共謀を疑われ、丹羽長秀さんによって討たれてしまいました。

その後、織田家の家督相続の決定が下された清須会議を経て、大坂城は一時池田恒興(いけだつねおき)さんに与えられますが、すぐに美濃国へ国替えとなり代わりに羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)さんがこの地を領有することになりました。

この地の重要性を認識し念願叶い手に入れることができた秀吉さんは、1583年に居城とする大坂城の築城を開始します。

この時の築城工事に動員された労働者は3〜10万人。
また、堺の港は各地から石垣用の石を搬入する船で、1日200〜1,000艘も出入りしたといわれていて、貴重な金銀は瓦にも貼って飾りたてられたといわれています。

その後も全国の大名を従え盤石となりつつあった豊臣政権でしたが、1598年に秀吉さんが伏見城で死去すると、その権力は徐々に衰退していきました。
その決定打となったのが関ケ原の戦いですが、戦後に徳川家康よって豊臣家が領有していた所領は、東軍として参戦した大名への恩賞として分配されていきました。

これにより、当時200万石以上あったといわれる豊臣家の所領は、1/3程度の65万7,400石に削られ、摂津和泉国を領収する一大名に転落してしまいます。

しかし、その後も秀吉の後継者である豊臣秀頼(とよとみひでより)さんには、父秀吉さんの錬金術により蓄えた大きな財産と、この難攻不落といわれる大坂城を有していたため、その威勢はいまだ健在でした。

徳川家康さんは、そんな豊臣家を弱体化させるべく様々な手を打ち、やがて豊臣家を滅ぼす「大坂の陣」へと追い込んでいきます。
1614年に「大坂冬の陣」が開戦しますが、難攻不落の大坂城は一筋縄では落とすことができず大砲などを使い威嚇します。

その際の1発の砲弾が城内に命中したことで、淀殿の侍女が死亡。
淀殿は、それを目の当たりにしたため、恐怖にかられ家康さんからの和議に応じたといわれています。

この時の講和条件により、大坂城の本丸を守る、惣構や二の丸、三の丸などが破却されました。
このように、内堀と本丸のみの裸城となった大坂城は、翌年の「大坂夏の陣」により落城し炎上。豊臣氏はこの大坂城とともに滅亡しました。

大坂城落城の際には、天守の北側にあった山里曲輪の朱三櫓の中で、豊臣秀頼さんやその母である淀殿を含む30人ともいわれる側近の武士や女中たちが共に果てたとつたえられています。


豊臣氏を滅ぼした家康さんは、1615年に当時伊勢亀山城主だった外孫の松平忠明(まつだいらただあき)さんを大坂城の城主に任命。

忠明さんは、埋めたてられていた堀を掘りおこし、荒廃した城内の整理を完了させると、その4年後には大和郡山に転封となりました。
その後は大坂城には幕府直轄地(天領)として城代が置かれるようになり、さらに城郭の再建へと進んでいきます。

徳川幕府の直轄地となった大坂城の初代城代には、内藤信政が赴任。

2代将軍秀忠さんの指示のもと、1620年にこれまでの豊臣色を完全に払拭するために大阪城の大規模再建工事が開始されました。

この工事には、主に西国大名が中心に普請に駆り出されます。
度重なる戦費の後にこの大規模な築城工事ですから、それらにかかる費用を捻出するのに、多くの大名は苦労したそうです。

そんな中、普請奉行として抜擢されたのが、築城の名手といわれた藤堂高虎さん。
かなりの数の築城に関わっているので、その名声は天下に鳴り響いていたことでしょう。


工事は3期9年にわたり続けられ、近年の発掘調査では秀吉時代の大坂城の敷地の上に10m程の土を積み上げられて縄張りされていたことがわかっています。

大坂城再築工事が完成した時には、将軍は秀忠さんから家光さんへと代わり、それまでに動員された大名は64家にのぼったといわれています。

徳川時代の大坂城は、豊臣時代の大坂城に見劣りしてはならないという、幕府の見栄に近い強い意向があったこともありました。
豊臣時代の本丸は完全に埋め立て、それを土台として新たな本丸を造り、曲輪の配置もすべて造り替えられていきます。


石垣の高さも豊臣時代の倍にしたことにより、使われた石の数はなんと40万個。
その石ひとつひとつの大きさも半端ないので、その労力は想像を絶するものだったでしょう。
この内堀の高石垣は、現在全国の城の中で1番の高さを誇ります。
内堀を遊覧する御座船に乗船して見学できますが、堀から見上げる石垣はまさに圧巻です。


そんな長い年月をかけた大工事も1629年に終了。

本丸に建った徳川期の天守閣は、外観五層六階の総塗籠白壁。高さは58.5mもありました。

しかし1665年の正月、落雷により残念ながら全焼し、以後江戸時代には大坂城に天守閣は再建されることはありませんでした。

その後200年を経て幕末。
1868年に発せられた王政復古の大号令により、将軍徳川慶喜さんは京都二条城からこの大坂城へと移り、大坂から船で江戸へと退却しました。
大坂城はその後新政府軍に明け渡されますが混乱の中で城内で出火。
本丸御殿を含むほとんどの城内の建造物がこの時に焼失してしまいました。

現在遺る本丸の石垣には、その時の火災で黒く焼けた跡も数多くの石垣に見られます。


現在ある天守は、市民の寄付により再建されたもので、徳川時代の大坂城天守台の上に豊臣時代の大坂城天守閣を模して建築されたものです。

●その他おすすめ書籍
・「秀頼の首」 著者:木崎國嘉
・「豊臣大明神の誕生」 著者:野村玄