唐沢山城の歴史

●城あそびポイント

①天狗岩から眺望を楽しもう
戦国時代、城の周囲を見張るための場所だったといわれる天狗岩。
見張り場所ということもあり、視界は開けていて関東平野が一望できます。
天気の良い日は富士山も見えるというおススメビュースポットです。


②関東地方では珍しい高石垣を見上げてみよう
土の城が多い関東地方にあって、唐沢山城のような石垣の城は貴重です。
石垣の高さは、高いところで10m近くあるようです。
40mにわたり築かれた石垣の迫力は圧巻です。


③唐沢山神社に参拝しよう
唐沢山城の本丸には、唐沢山神社の本殿が建てられています。
この神社には、「平将門の乱」を平定したとつたわる藤原秀郷公が祀られていて、勝負運や運気UPのご利益にあやかれると人気のあるパワースポットです。

●唐沢山城の歴史

この城には、こんなエピソードが残されています。
城主が江戸の方角を見ていると、火災が起こっているのを発見します。
驚いた城主は早馬で江戸城へ駆けつけますが、そのことが「江戸を見下ろせる危険な城」として将軍徳川家康さんの不興を逆に買ってしまい廃城に至ったという悲しいエピソード。
そんな嘘か本当かわからない話が伝えられている城として、以前からずっと気になっていました。


さて、そんな唐沢山城ですが、築城については、藤原秀郷(ふじわらひでさと)さんが築いたという伝承が残されています。

室町時代には、下総国を本拠とする古河公方に仕えていた下野国の有力国人の佐野氏により唐沢山城の改築・拡張工事は行われ、下野国有数の堅城に成長していきました。

その佐野氏の15代当主が、この唐沢山城で上杉謙信や後北条氏の軍勢を何度も撃退した戦上手、佐野昌綱(さのまさつな)さんです。

戦国時代に入ると、関東の地では徐々に古河公方の力が弱まり、南からは後北条氏、北からは上杉氏の勢力が拡大。
唐沢山城は、この二大勢力に挟まれた厳しい状況を迎えることになります。

昌綱さんはこのどちらかの勢力につくことを迫られ、まずは上杉氏に同調しました。

1559年、敵となった北条氏の北条氏政(ほうじょううじまさ)さんが約3万5千の軍勢で唐沢山城を包囲します。
昌綱は、予め要請していた上杉謙信(うえすぎけんしん)さんの援軍によって後北条軍を撤退させることに成功しました。

その後、昌綱さんは上杉謙信さんに臣従し、後北条氏が籠城する小田原城の攻囲軍として参加します。

しかし、難攻不落の小田原城を容易に落とすことができず、冬の到来により帰路が閉ざされることを恐れた謙信は越後へ撤退してしまいました。

そこへ待ってましたとばかりに後北条軍が反撃。
北条氏康(ほうじょううじやす)さん率いる大軍が唐沢山城を攻めると、上杉の援軍を得られなかった昌綱は降伏します。

これに怒ったのが謙信さん。
昌綱さんが裏切ったとみなし、今度は謙信さん率いる上杉軍が唐沢山城は攻めたてました。
しかし、唐沢山城の防御力と冬の到来によりまたも上杉軍は一時撤退を決断します。

春を迎えると、上杉軍は再び唐沢山城への攻撃を開始しますが、ここでも昌綱さんが守りを固めた唐沢山城の攻略には至りませんでした。

そんな中、越中国で守護代の神保氏による反乱が勃発。
謙信さんはこの鎮圧のために越中国へ兵を進めなければならず撤退。
これにより関東の地での戦いは一時終息を迎えました。

謙信さんは越中国の反乱の鎮圧に成功すると、再び関東攻略に注力しはじめます。
関東へ進撃を開始した上杉軍は、みるみるうちに後北条氏の城を落城させ、唐沢山城もその勢いを止めることはできず、今度は攻略されてしまいました。

しかし昌綱さんは謙信さんの処分を受けることなく、そのまま許され唐沢山城の守備を任されますが、謙信がこの地を離れた隙をついて再び反旗を翻しました。

またも裏切った昌綱さんを許すことはできない謙信さん。
再び唐沢山城を攻撃を開始します。

昌綱さんは徹底抗戦を試みますが多勢に無勢。
ついに上杉方の説得に応じて降伏しました。
今度ばかりは覚悟を決めた昌綱さんでしたが、周囲の謙信さんへの助命嘆願もあり、なんとか命を拾うことになります。

その後も昌綱さんは、この地を守り生きのびるために、上杉氏と後北條氏の間を行ったり来たりと関東の大勢力の状況に応じ、味方する相手を変えながら何度も危機を乗り越えていきました。

唐沢山城での最後の戦いも、理由は昌綱さんの上杉からの離反によるものでしたが、この戦いも冬の到来により上杉軍は唐沢山城を攻略できず撤退しています。

昌綱さんが亡くなるとその嫡男、宗綱さんが跡を継ぎ城主となります。
昌綱さんの死後も度々も上杉軍に攻められますが、宗綱さんは自身の知略と唐沢山城をもって何度も撃退しました。

しかし本能寺の変が起こると、滝川一益率いる織田方として北条方の軍と対立。残念なことにその戦いにおいて討死してしまいました。

当主を失った唐沢山城では次期当主を巡って、佐竹氏から迎えるか、北条氏から迎えるかで重臣同士が対立。
これを知った北条氏により、唐佐和山城は北条氏に占拠され、北条氏康さんの五男氏忠さんを養子として迎え、佐野氏忠として佐野氏を継ぐことになりました。

このように北条氏に事実上吸収された形となった佐野氏ですが、北条氏から養子を迎えることに反対だった昌綱さんの弟の佐野房綱さんや重臣はことごとく出奔。

後に豊臣秀吉さんに仕え、小田原征伐にも参陣した戦功により房綱さんが一時は断絶した佐野氏を継ぎお家再興を果たしました。

秀吉さんの死後、天下分け目といわれる関ヶ原の戦いが起こると、東軍として参戦した房綱さんの跡を継いだ信吉さんはその際の戦功を認められ、3万5千石の旧領であるこの地を与えられ、再び佐野氏が唐沢山城の城主に返り咲きます。

しかし1602年、信吉さんは麓に新たに佐野城を築城しそこへ移ったため、唐沢山城はその長い歴史に幕を下ろすことになりました。