備中松山城の歴史

●城あそびポイント

①大手門の巨大な岩盤にたつ石垣群を観てみよう
備中松山城は天然巨石をうまく取り入れながら石垣が造られています。
10mを超える岩盤とそれを取り巻く石垣群に囲まれた威圧感は半端ありません。
石垣酔いしないようにご注意ください。


②猫城主さんじゅーろーに会いに行こう
備中松山城では、城主に任命されたさんじゅーろーという猫がお出迎えしてくれます。
10時と14時には城内を見回りしているので、出会える可能性が高いようです。
ぜひ一緒に記念写真を撮らせてもらいましょう。


③現存十二天守のひとつであり、その中で最も高い場所にある天守に入ろう
現存する天守の中で最も高い場所にあるが、天守の大きさは最も低い。
1階には囲炉裏があり、2階には宝剣が祀られています。


④雲海に浮かぶ備中松山城を観てみよう
雲海に浮かぶ備中松山城は、すごく幻想的です。
雲海展望台からのその様子を直に観ることができるので、機会があればぜひ観に行ってみましょう。
◎雲海の発生する時期
・9月下旬から4月上旬(明け方~AM8時頃)
※特に10月下旬から12月上旬の早朝が濃い霧が期待できるようです
写真:高梁市観光協会提供

YOUTUBEで24時間の眺望ライブ配信もされていますので、こちらのサービスをよければご利用ください。
備中松山城雲海展望台からの眺望ライブ配信 – YouTube

●訪問前に読んでもらいたいおすすめ書籍

「備中松山城 猫城主 さんじゅーろー」
著者:西松 宏 ハート出版

 

●備中松山城の歴史

日本三大山城のひとつに数えられる備中松山城。

この備中松山城は、高梁川の西側にある急峻な臥牛山という山の上に築かれていて、北の山陰道と南の山陽道を繋ぐ要地だったため、古くからこの城を巡って激しい争奪戦が繰り広げられました。

この臥牛山には大松山・小松山・天神丸・前山という4つの峰があります。

承久の乱で軍功のあった秋庭重信さんが地頭として入国し、4つの峰のひとつ「大松山」の頂上に城を築いたのが備中松山城のはじまりといわれています。

その後、1332年に備中守護職を任じられた高橋宗康さんが大松山へ入城。
この時に小松山も城域として拡張しました。

16世紀に入ると、備中松山城は凄惨な戦闘が何度も行われ、その度に城主が入れ替わるものの、最終的には三村氏の城となりました。

しかしそんな中、三村氏の当主だった家親さんが浦上氏の被官の宇喜多直家さんの刺客により鉄砲で暗殺されてしまいます。

家親さんの子の三村元親さんは弔い合戦として大軍を率いて「明禅寺の戦い」に挑むものの逆に宇喜多軍に敗北を喫し一時衰退します。

その後、なんとか勢力を取り戻した元親さんは、天神丸・前山にも2峰にも城地を広げました。
この時に臥牛山の4峰が完全に備中松山城に取り込まれたといわれています。

実はこの三村氏は、これまで西の毛利氏を後ろ盾に勢力を伸ばしてきました。

しかし突如、敵対していた宇喜多直家さんが毛利氏と提携することとなったことで、元親さんは毛利氏から離反します。

これにより逆に毛利氏とも敵対することになった三村氏。
1575年についに毛利氏の大軍に攻められ、元親は自刃し備中松山城は落城しました。

毛利氏が手中にした備中松山城には、城番として毛利氏家臣の桂氏と天野氏がおかれ城下町の形成に力が入れられることになります。

関ヶ原の戦いで西軍として敗北した毛利氏が減封となると、この地は幕府の直轄領となり、関ヶ原の戦いの功績で小堀正次さんが備中の代官として入城しました。

正次さんの妻は、浅井家の勇将で姉川の戦いで「員昌の姉川十一段崩し」の逸話を遺した磯野員昌さんです。

そしてこの正次さんの子が、「茶人大名」として有名になる小堀政一さん(遠州)。
政一は古田織部さんに茶湯を学び、後に「きれいさび」といわれる「遠州流」を創始した人物です。

また政一は、庭園作庭や普請奉行として駿府城修築を行うなど数々の公儀作事においてその才能を発揮しました。

小堀氏は政一までの二代で城や寺社の修築、城下町の整備を大きく進め、この地の発展に大きく貢献しました。

1617年には、鳥取からの移封により池田氏が城主となり、二代目の勝家さんの時に2年の歳月をかけて城郭が整備されます。
天守、二重櫓、三の平櫓はこの時の遺構といわれています。

池田氏の後に城主となった水谷氏は、残念ながら三代で無嗣断絶し改易となりました。
この時にこの備中松山城の城受け取り役になったのが、赤穂浪士で有名な赤穂藩主浅野長矩で、後に討ち入りを采配した大石良雄さんが備中松山城の城番となっています。

その後城主は何度か替わるものの、最後は板倉氏が8代続いて明治維新を迎えました。