伊賀上野城の歴史

忍者の里といわれる、三重県伊賀市。
「天正伊賀の乱」では、この地の伊賀衆と呼ばれる国人たちが織田信雄率いる8千の織田軍を破るなどの活躍を見せています。

そんな独立色の強いこの地にあるのが、伊賀上野城です。
今回は、この城とその歴史をご紹介したいと思います。

上野城は三重県伊賀市にあり、当時の京都や奈良から東海道へ通じる交通の要衝です。

室町時代からこの地を治めていたのは、伊賀国の守護大名、二木氏でした。
二木氏は現在の上野城の西ノ丸がある場所に居館を構えていたといわれています。

しかし、守護でありながらその勢力は衰退の一途を辿り、遂には守護所が国人の豪族の襲撃を受け信楽へ逃亡してしまいます。

その後二木氏は、織田信長の後ろ盾を得て再び守護に返り咲くものの、もちろん国人たちの支持は得られず今度は追放。
伊賀の国人たちは反織田という姿勢を明確にしたことで、その後も織田軍との激しい戦いが繰り広げられることになりました。

天正伊賀の乱では織田信雄(おだのぶかつ)さんの軍に勝利したものの、その後信雄さんお父親である信長さんが4万5千の軍勢で攻め寄せたため、それを防ぎきれずに敗北。
伊賀全体で、非戦闘員を含む3万人が殺害されたといわれています。

その後信長さんは、信雄さんの家臣である滝川雄利(たきがわかつとし)さんに伊賀国守護を任命します。
雄利さんは戦いによって焼失していた平楽寺の跡に、その後伊賀上野城の前身となる砦を築き伊賀国を支配しました。

小牧長久手の戦いでは、雄利さんは主君である信雄さんのもとでこの城を守りますが、秀吉方の脇坂安治(わきざかやすはる)さんの攻撃を受け奮戦及ばず落城。

1585年には、豊臣秀吉に羽柴姓を賜った筒井定次(つついさだつぐ)さんが大和郡山から上野の地に移り、この城の城主となりました。

定次さんは全面的にこの城の改修を行い、三層の天守を建てると、次いで本丸の西に二の丸、北に三の丸をつくりました。

この筒井時代の天守跡は、現在の上野城城代屋敷跡の北東隅にあったと考えられています。
現地に行くと少しみつけにくいものの、その跡を確認することができます。

1600年、定次さんは徳川家康(とくがわいえやす)さんによる上杉景勝討伐に従軍。

しかし、留守居とした弟の玄蕃(げんぱ)さんが、西軍に属した高槻城主の新庄直頼(しんじょうなおより)さんに攻められ、一戦も交えず降伏し上野城を明け渡し高野山に逃亡してしまいました。
それを知った定次さんは、家康さんの許しを得て慌てて引き返すと、やっとの思いでこの城を再奪取。なんとか面目を保ちます。

しかし、その後も家中で紛争が生じるなど城主として失態を続けた定次さんは、徳川家康さんの信用を失いに遂にはその領地を没収されました。

1608年には、伊予今治から家康が絶大の信頼をおく築城の名手と呼ばれる藤堂高虎(とうどうたかとら)さんが定次さんに代わって伊賀国へ移封されます。

高虎は、1611年から上野城の大幅な改修に着手しはじめると、大坂城を意識して城の西側の防御に力を入れ取り組みました。
現在、日本で2番目に高い石垣といわれる上野城の西側の高石垣は、その時の工事でつくられたものだといわれています。

筒井時代には大坂城を守る出城の役割を担っていたこの城は、高虎さんにより大坂城を攻めるための城という全く正反対の城に変貌しました。

そんな高虎さんが家康さんより与えられた石高は22万石。
しかしその内訳は、伊賀が10万石、伊勢が10万石という2国を基盤にしたちょっと異色な領地配置でした。

伊勢の津城を平時の本拠として東海道を抑えるとともに、伊賀上野城は豊臣秀頼(とよとみひでより)さんがいる大坂城に備えるための城として支配体制を固めました。

高虎さんの支配となってからの上野城は大幅な改築に取りかかった結果、筒井時代の城のおよそ3倍の大きさにまで拡張されました。
堀の深さは幅15間(約27メートル)、石垣の高さも15間というスケールでつくられ、その上に5層の天守が建てられた壮大な城でした。

しかし、完成を目前に天守は暴風雨により倒壊。
その後大坂夏の陣で豊臣家も滅亡したため、その役割を終えた上野城には天守が再建されることはありませんでした。

高虎さんは大阪の陣が終わると、上野城から交通の便の良い津城へと移りそこを居城としたため、上野城はその支城として機能しました。

伊賀上野城はその後も1825年まで藤堂家が城主を世襲。
一国一城令では対象の城からは外され存続が認められますが、明治維新後の廃城令では廃城処分が決定。
構造物の多くが破却され、その長い歴史に終止符が打たれました。