丸岡城は福井県坂井市にあり、現存天守としては古い建築様式を持つ平山城で、別名は霞城とも呼ばれています。
江戸時代前半から現在まで天守がのこされているのは大変貴重で、北陸で唯一の現存天守を持つ城でもあります。
今回は、そんな丸岡城とその歴史をご紹介したいと思います。
越前の一向一揆を平定した織田家重臣の柴田勝家(しばたかついえ)さんが、甥の柴田勝豊(しばたかつとよ)さんに所領の坂井郡4万石を分け与え、「豊原」という地に築城させたのが丸岡城です。
当時この地には豊原寺がありましたが、この寺は朝倉方について一向一揆と戦った経緯もあることから、朝倉氏滅亡後の1574年、逆に一向一揆の大軍に攻められ降伏後。
その後は、本願寺の坊官である下間頼照(しもつまよりてる)さんの本拠とされていました。
その後、本願寺と敵対する織田信長の大軍が再び越前国に来襲すると、この寺も例外なく攻撃の対象となりすべてを焼き払われます。
その後、この地を与えられた柴田勝豊さんによりこの地に城が築かれますが、それが現在ある丸岡城のはじまりとなります。
しかし、1582年「本能寺の変」が起こり、織田信長さんとその息子の信忠さんは自刃が京都で自刃すると状況は一変します。
主君である信長さんの弔い合戦となった「山崎の戦い」で、羽柴・織田連合軍が明智軍に勝利すると、信忠さんの亡き後の織田家後継者を決めるべく清州城で会議が開催されました。
これにより領地の再分配が行われ、勝豊さんは北近江の長浜城へ移されます。
この丸岡城には、勝豊さんに代わって勝家さんの家臣である安井家清さんが置かれ統治が継続されました。
しかしその後、賤ケ岳の戦いで敗れた柴田勝家さんが羽柴秀吉さんに滅ぼされると、勝家さんが本拠とした越前国は丹羽長秀さんの所領となり、丸岡城には長秀さんの家臣の青山宗勝さんが城主として入ることになります。
丸岡城代となった青山宗勝さんは、主君として仕えた丹羽長秀さんが死去すると、そのまま豊臣秀吉さんの家臣となり越前に2万石が与えられました。
さらに九州平定への従軍や伏見城の普請にも功績を挙げ、遂には越前丸岡に4万6千石が与えられるまでに大出世します。
しかし、順調に出世を重ねてきた宗勝さんも、1600年の関ヶ原の合戦には、西軍に属したことで改易。所領の4万6千石はすべて没収されてしまいました。
その翌年には、越前に徳川家康さんの次男の結城秀康(ゆうきひでやす)さんが入部。
その家臣である今村盛次(いまむらもりつぐ)さんが丸岡城の城代として入城します。
しかしこの盛次さん、同年に福井藩筆頭家老の本多富正(ほんだとみまさ)さんと繰り広げた「越前騒動」により失脚。
幕府は、盛次さんと敵対していた本多派閥の同族、本多成重(ほんだなりしげ)さんを代わりに4万3千石で丸岡城の城代としました。
藩主の忠直さんの補佐として任命した人事ではありましたが、その甲斐なく忠直さんは乱行のかどで豊後へ配流処分が決定。
これにより丸岡城代の成重さんは、大名に昇格し新たに丸岡藩が誕生しました。
丸岡藩本多家は、成重さんの子の重能さんの時には幕府に願い出て大規模な城の修復を行うとともに城郭を拡張しました。
その後も順調に丸岡藩本多家による継投かと思われたその矢先、4代重益(しげます)さんの時に勃発したお家騒動で所領はあえなく没収され改易となり、重益さんは因幡鳥取藩へ配流となってしまいました。
本多家の改易後は、越後糸魚川から有馬清純(ありまきよずみ)さんが5万石で入城。
清純さんは1704年に59歳で亡くなりますが、その子孫が藩運営を相続し有馬家が8代続いたのちに丸岡城は明治を迎えました。