●城あそびポイント
①上杉謙信が絶賛した七尾城本丸からの眺望を堪能してみよう
上杉謙信が七尾城を攻略し初登城した際に詠んだとつたわる「九月十三夜」いう詩に、七尾城本丸からの眺望が称賛されています。

②七尾城の曲輪で最大といわれる三の丸から大堀切を覗いてみよう
尾根筋からの敵の襲来を防ぐ目的で、二ノ丸との間に大規模な堀切がつくられました。
高さ26mにもおよぶ堀切の深さは圧巻です。

③野面積みの五段石垣を観てみよう
七尾城の本丸を目指すと、一番最初に目にすることになる桜馬場へ上る際の石垣群。
幾段にもつくられた石垣を見上げると、その場所にあった当時の建物の想像も膨らみます。

④七尾城資料館で、当時の七尾城のイメージCGを観てみよう
当時の七尾城が再現された迫力あるCGを資料館で観ることができます。
より鮮明にイメージできた七尾城の規模と各曲輪の配置に驚かれると思います。
資料館の前には「日本最小の茶室」といわれる旧樋爪家の庭園にあった貴重な茶室もみられます。
七尾城の復元CGは、YouTubeでも観ることができます。
【石川県七尾市】七尾城CGで復元 – YouTube
●七尾城の歴史
石川県能登半島にある連郭式の日本屈指の規模を誇る城、「七尾城」。
七尾という名は、石動山系の先端にある「七つの尾根」(松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾・虎尾・龍尾)から由来されたといわれています。
室町時代の名門である三管領のひとつ「畠山家」。
その当主だった畠山基国(はたけやまもとくに)さんの次男、畠山満慶(はたけやまみつよし)さんがこの能登国の守護となって、今の七尾市の府中に館を構えたのがはじまりとされています。
5代目の畠山慶致(はたけやまよしむね)さんの頃には、守護所の規模も拡張され場所も府中から七尾へと移されました。
その後七尾城は徐々に増築され、最大の縄張りとなった頃には山頂にそびえるその威容が「天宮」と称されたと伝えられています。

1547年、7代の慶総(よしふさ)さんの弟である畠山駿河父子によって反乱が起こりました。
それを鎮めた守護代の遊佐継光(ゆさつぐみつ)さんと温井総貞(ぬくいふささだ)さん。
しかし、今度はその両者が反目し合い、家中での勢力抗争へと発展していきました。
そしてついに畠山家8代義継(よしつぐ)さん、9代義綱(よしつな)さん父子が家臣達から追放されるという事件がおこります。
実権は慶綱さんの嫡男でまだ幼年の義慶(よしのり)さんへ移り、七尾畠山家は完全に傀儡政権へとなってしまいました。
その後、城主となっていた畠山義慶(はたけやまよしのり)さんは暗殺。
この内乱を機に越後の上杉謙信(うえすぎけんしん)さんが能登へ侵攻を開始しました。
その大義名分は、かつて畠山氏より人質として差し出されていた上条政繁(かみじょうまさしげ)さんを次の新たな畠山当主として擁立し、乱れた能登の治安を取り戻すというものでした。
畠山軍の主力は七尾城へ拠り応戦体制を固めますが、謙信さんはその支城を次々と攻略し徐々に包囲の輪を縮めていきます。
そんな中、相模の北条氏政さんが関東へ出兵したことで、その対策のために謙信さんは一時越後へ帰国することになりました。
その隙をついて、畠山軍は残された上杉軍に対して反撃に転じ、各地の城を奪い返していきます。
しかし、領国の仕置きを終えた謙信さんが再び能登へ出陣すると、畠山軍は奪った城をすべて放棄し全兵力を再び七尾城へ集中させました。
それと同時に重臣の長続連(ちょうつらたつ)さんは、織田信長さんへ使者を送り援軍を要請。
信長さんもこれを了承し、家臣の柴田勝家(しばたかついえ)さんを総大将として能登へと軍を進めました。
しかし、七尾城ではこの籠城中に城内で疫病が発生。
兵士だけでなく城主で5歳の春王丸までが流行り病にかかり亡くなってしまいます。
当主を失った七尾城は大混乱。
そんな中、かねてから親上杉派だった遊佐継光さんの内応により、親織田派の長氏一族が城内で討たれるという事件が起こりました。
これによりそして一年に渡って持ちこたえた七尾城は謙信さんに降伏し開城。
謙信さんはついに七尾城を手に入れることに成功しました。

その後謙信さんが亡くなると、七尾城は上杉氏から織田氏へと支配が変わり、織田氏家臣の前田利家さんの子の利政さんが一時城主となります。
しかし利政さんは、拠点を新しく築いた小丸山城へ移したことで、1589年七尾城は廃城となりました。