唐津城の歴史

国の特別名勝の「虹の松原」や陶磁器の産地としても有名な唐津。

今回は、その町のシンボルともいうべき唐津城をご紹介したいと思います。

唐津という土地は、茶道をされている人なら良くご存知だと思いますが、「一井戸、二萩、三唐津」という茶碗の格付けがあるように、茶の湯の名品として多くの茶人に愛された陶器、唐津焼の産地でもあります。

唐津焼は、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に、朝鮮の陶工たちを連れ帰ったことで、その陶工たちが窯場で朝鮮の技術を使い様々な作風を生みだしたことにより一気に全国へ広まりました。

西日本では焼き物のことを「からつもの」と呼ぶほど有名です。

唐津城が築かれたのは、ちょうど戦国時代も終わりがみえてきたそんな時代です。

豊臣秀吉の死により朝鮮から諸将が兵を引き上げて間もなく、天下分け目といわれた関ケ原の戦いが起こります。

この戦いは東軍の勝利として決着し、1,600年徳川幕府がおこります。

この徳川幕府誕生から2年後の唐津城の築城ははじまり、寺沢広高により6年という歳月をかけてやっと完成しました。

広高は、築城の際には北波多村に拠点を置き、そこから通いながら築城の差配をしたといわれています。

城をつくるための建材は、それまでにこの地に築かれていた肥前名護屋城や岸岳城から調達されました。
広高自身も土木事業に優れた手腕を持っていましたが、更に九州の諸大名たちの協力を得たことでよりスピーディーに完成させることができたようです。

1603年には、天草の富岡にも城を構え、広高は12万3千石の大名に大出世。

しかし、領民への徴税は徐々に過酷を極め、嫡男の堅高が藩主になった際には、更に厳しい年貢の取り立てやキリシタンの弾圧が行われました。

領民は疲弊し、さらに飢饉の被害が加わったことで、領民の不満は大爆発。

ついに江戸幕府を震撼させた日本の歴史史上最大の一揆「島原の乱」が起こります。

堅高は参勤交代中に島原の乱の報告を聞いたらしく、その時のショックはかなりのものだったはず。
速攻帰国し幕府軍とともに乱の鎮圧にあたります。

乱の終結後には、失政の責任を幕府より問われ、がっつり知行を削減。
でも、まだこの処分は軽い方。
隣の島原藩主の松倉勝家は、同じく領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てを行い一揆を招いたとして改易の後斬首です。

堅高は、この島原の乱の一件で大きく精神的なダメージを負ったのか、その後堅江戸の海禅寺で自殺しました。
そして堅高に嗣子がなかったことで寺沢家は断絶。
歴史の表舞台から消えてしまったんです。

寺沢堅高の死後、唐津は一度天領となりましたが、1649年に大久保忠職が播磨国明石城から入部。

その後唐津城は、この大久保氏3代、松平氏3代、土井氏4代、水野氏4代と続きます。

水野氏の治世の際には、天保の改革で有名な水野忠邦が出世目的で、まさかの遠江国浜松城に転出を熱望。
それが幕府に認められ、代わりに小笠原長昌が陸奥国から入城した後は、小笠原氏6代を経て明治維新を迎えました。

しかし、明治4年の廃藩置県により廃城し、明治9年までにほとんどが破壊されてしました。

現在の天守閣は寺沢氏時代の天守台跡に昭和41年に建てられたもので、中は博物館のようになっており、レプリカの兜や陣羽織を無料で着用し撮影できたりしてけっこう楽しめます。