個人的に一番ビジュアルが好きなお城岡山城。

紹介にも一段と気合が入ります!

特にこの角度からの岡山城天守がかっこいんですよねぇ。
二階建ての建物を大中小の三つに重ねた三層六階の構造を持つ戦国時代の名残りともいえる黒い天守。
いやぁ~、いつ見ても惚れ惚れします。

では、岡山城をご紹介!
今回も少し長めですので、気合をいれてお読みください。

岡山城は、別名を「烏城」とも呼ばれ、外壁の下見板には黒漆が塗られていました。
それが日の光に照らされると、烏の濡れた羽を見たような美しさだったようです。
実際にどんなもんだったか見てみたいですよね。

古い記録には、織田信長が築いた安土城にならってつくられたと伝えられていて、もしかしたら安土城の面影をこの岡山城で追うことができるかもしれません。
そう考えると益々ワクワクが止まらない!

旭川の水流を利用して内堀とし、天守の川を挟んだ北側には、日本三大名園のひとつ「後楽園」が広がっています。
日本庭園といえば、私はやっぱりこの後楽園が一番好き。
この中に家を建てて住めたらどんなに幸せだろうと思います。

この後楽園では、季節に合わせた様々なイベントも開催されたいて、お城とともに日本の四季を堪能できる庭園ですのでおすすめですよ。

ゆっくり岡山城東側に回り込むと立派な高石垣がそびえたっています。
実は元の石垣は宇喜多秀家が築いたもので、その隅石部分を関ヶ原の合戦後に入城した小早川秀秋が改修し継ぎ足した跡です。
手前の馬出しのような石垣の奥がその部分ですが、石垣の角が少し雑に積み増されているのが見ていただけると思います。

実はこの岡山城、元は「石山城」という城があった場所に縄張りがされ築城しています。
石山城は、現在の本丸西側の二ノ丸付近(市民会館や放送局のあたり)の高台にあったようで、当時は守護代の松田氏に属していた金光備前の居城でした。

その子の宗高の時に、当時沼城を拠点としていた宇喜多直家が、松田氏に宗高が毛利と内通してるで!と言いがかりをつけ謀殺。戦わずして石山城を手に入れます。
この頃から既に直家の謀略は冴えわたってたようですね。

この地の重要性に気づいた直家はここを本拠とすべく、大規模な縄張りを行い、1573年に家臣の岡平内に命じて大改修をはじめます。これが現在の岡山城の基礎となっているんです。

城の修築がほぼ完成した同じ年の秋頃には、直家は沼城より岡山城に移ります。
そして更に西国街道も城下を通るように力ずくで路線を変え、商人を呼び集めるといった流通主導の経済振興策をとることで城下町の発展に力をいれました。

しかし現在ある岡山城の規模に近いところまで更に基礎をつくり上げたのは、実は直家の嫡男の宇喜多秀家なんです。

後に「備前宰相」と呼ばれ、豊臣政権下で大出世を果たすも、関ヶ原の合戦に敗れ、遠く八丈島へで人生を終えた戦国武将です。

宇喜多直家の死後家督を継いだ秀家は、豊臣秀吉からの寵愛を受け、57万4,000石の大大名となります。
そして、それに相応しい城を造るために1590年から本格的に築城に着手していきました。

しかし途中、朝鮮出兵の総大将として戦地へ赴くことになりますが、帰国後すぐに工事を継続し、1597年には天守を完成させ全工事が完了させました。

この工事では、「岡山」という小高い丘の上に、旭川の流路を変える際の掘削ででた土砂を積み上げ本丸をつくり、その上に天守を建てました。相当な大工事だったことが想像できますね😅

ちなみにこの石垣は、宇喜多秀家が1597年までに築いた石垣です。
自然石で野面積みされており、西側の石垣は3m近くまで埋まっているので、本来の高さは15.6mあるといわれています。関ヶ原合戦以前の石垣としては全国的にみても屈指の高さです。
さすが、備前宰相!

宇喜多秀家が関ヶ原の合戦に敗れた後は、備前の岡山城には小早川秀秋が52万石の領主として入城します。

関ケ原の戦い後の小早川秀秋についてはあまりイメージが湧かないと思いますが、実はこの地に領地を得てから本丸を拡幅したり三ノ丸の外側に外堀を掘るなどして城下町の拡大を行っています。
しかし1602年、秀秋は急死し世継ぎがなかったことで小早川家は断絶となりました。

その翌年には、備前28万石は姫路城主池田輝政の次男忠継に与えられますが、幼少であったため兄の利隆が「備前監国」として代政します。

1613年、満を辞して忠継が岡山城に入城するも1615年に死去。
その後は、淡路島より忠継の弟の忠雄が31万5千石で入封しました。
池田家の中でもいろいろ目まぐるしく城主が変わりますね。

忠雄は、岡山城本丸を北側に更に拡張させ、御殿に加えて表書院を設けます。
重要文化財に指定されている月見櫓はこの頃の創建とされていて、中の段の北西角の隅櫓となります。
この建物、面白いことに城外から見ると二層の望楼型、城内からは三層に見えます。

ちなみに下の写真は、城の「中の段」にある宇喜多秀家時代の石垣の一部です。
このあたりの造成土から、桐の文様が入った金箔瓦が出土したようです。
桐の家紋は豊臣秀吉から秀家が与えられた家紋で、当時の岡山城の建物はこのような金が贅沢に使われて、さぞ豪華だったんでしょうね。

1632年には池田忠雄が死去し、その子の光仲がわずか3歳で家督を継ぐことになります。
しかし、幼少のために山陽道の重要拠点を治めるのに無理があるとされ、因幡鳥取へ転封。
入れ代わって因幡鳥取から池田光政が31万5千石で入城しました。

光政は、忠継時代に備前を代政していた利隆の子で、父の死後は1615年に鳥取城主となっていました。
後に江戸初期の三名君の一人に数えられた人物てとして有名です。
以後、岡山城は幕末までこの光政の系統の池田氏の居城として受け継がれていくことになります。

1687年からは光政の子である綱政に引き継がれ、14年の歳月をかけて後楽園が造営されました。
周囲を土塁と竹垣で囲み、庭園の形をとるものの城を守る郭の役割としても期待されていたようですよ。

後楽園の造営には、郡代である津田永忠の功績が大きく、この他にも日本最古の庶民の学校となる閑谷学校の設立や新田開発など、岡山藩の発展に大きく貢献しました。

そして1869年、版籍奉還により藩主の池田章政は岡山藩知事に任ぜられると、岡山城は藩の府城としての役割を終えます。

その後の1873年の廃城令により、順次建物の取り壊しや堀の埋め立てが行われ、1882年頃までには、天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門を残すのみとなりました。

ちなみに岡山城の天守には、「桃瓦」があります🍑しかも、金色に装飾されてます。
これは、留蓋瓦(とめがわら)と呼ばれるもので、本来は雨漏りを防ぐために使われています。
いろんなお城でも使われていますが、岡山城のように「桃」の形で使われているのは、岡山城の他に実は全国に5城(大阪城、宇和島城、和歌山城、犬山城、大多喜城)あるんです。

一度他のお城に足を運ばれた際にも探してみてください。

古事記を読まれた方でしたらご存知かと思いますが、桃は邪気を払う果物とされており、魔除けの意味でお城の瓦としても採用されているんでしょうね。

ちなみにこの桃、桃太郎伝説とは関係ないようですのであしからず。

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