北近江に浅井家三代の本拠として有名な小谷城跡。

久々にがっつり登城してきました。
あらためて見ると規模がでかい上に曲輪のかたちも綺麗に残っていて、なんだかまだ戦国の息づかいを感じさせる城です。

今回はそんな小谷城の歴史をご紹介したいと思います。
ちょっと長くなるので、心して読んでください!

小谷城は、標高299mの小谷山に築かれていますが、中心部分となる本丸や京極丸、山王丸等の本城域と標高495mの大嶽とに分かれていました。

上空から見るとUの字の逆にしたような感じになってます。

大嶽は、後に織田信長との戦いの際に朝倉氏のために造られたといわれる大嶽城の跡も残っていて、ちらっと落ち武者が出てきてもおかしくない雰囲気が漂ってます。

本城のまわりには、金吾丸などの支城が尾根づたいに造られ、浅井氏の居館はというと、清水谷と呼ばれる急峻な谷の奥に設けられていました。

この小谷城ですが、築城は1516年に浅井亮政によってつくられたと「浅井三代記」に書かれていますが確証はないようです。
どちらかというと、六角氏との戦いの前とする1523年頃の説が今は有力な感じ。

ちなみに信長の妹、お市の方を正室に迎えた浅井長政は、この亮政の孫にあたります。

元々亮政は、京極氏の被官でしたが、その家の相続争いで頭角を現し、巧妙に実権を握りました。
この頃から越前国の朝倉氏とも友好関係を保ち勢力を広げていました。
どちらかいえばイケイケな感じで浅井氏の基礎をつくった亮政ですが、1541年1月に小谷城で死去。

その後は亮政の子の久政、そして孫の長政へと浅井家は受け継がれていきます。
しかし戦国という激動の時代に飲み込まれ、その後小谷城は浅井氏と共に落城という悲劇を迎えることになります。

亮政の跡を継いだ久政は、側室の子であったことに加え、父とは対照的に武勇に冴えなかったともいわれており、家督相続においては家中でも少なからず反発があったよう。

なんだかちょっと気の毒ですね。

さらに敵であった六角氏に対して、徹底した従属的姿勢をとるという久政の弱腰外交政策は、家臣たちの多くが不満を持つようになり、徐々に求心力を失っていきます。

しかしそんな久政を尻目に、1561年久政の嫡男の賢政(後の長政)率いる浅井軍は、野良田の戦いで六角軍に圧勝。

この時の賢政の見事な戦いぶりは、重臣の赤尾清綱・海北綱親・遠藤直経たちを心酔させたといわれ、息子は重臣からの人気急上昇。

六角氏を完膚なきまでにボコった賢政は、六角氏からの独立を明確にするため、六角氏家臣の平井定武の娘を返し、「賢政」の名も新九郎に戻します。
きっちり落とし前つけてかっこいいですよね。

賢政の活躍で、浅井氏は再び正式に独立大名として北近江の地を治めることになりますが、内部では六角氏への従属姿勢をとっていた久政パパの立場は完全に失われました。
息子の活躍は嬉しいけど、パパの肩身が狭かったでしょうね。

そんな中、久政パパに追い打ちをかける出来事が…。
日頃から不満を溜めていた家臣たちに新九郎への家督譲渡を迫られ、半ば強引に隠居させられたようなんです。

久政パパは、一時琵琶湖に浮かぶ竹生島へ幽閉されたようですが、隠居してもなおその発言力はなぜか健在だったようで、これが後に禍いの種となったともいわれています。

その後、美濃の斎藤氏との膠着状態を打破するため織田信長が浅井長政に同盟を提案。

織田氏と朝倉氏が不仲だったこともあり、浅井家中では賛否両論あったようですが、結果同盟を結ぶことを選択し同時に政略結婚も行われました。

そして、この時に小谷城へ嫁いできたのが、信長の妹「お市の方」なんです。

新九郎は、その際に信長の一字を拝領し「長政」と改名したともいわれ、ここに戦国大名「浅井長政」が誕生しました。

その後両家は良好な関係を続けたものの、1570年に信長が長政と交わした約束を破り、朝倉方の城を攻めます。

「兄さん、話が違いますやん!」と怒り心頭の長政は、義景との同盟関係を重視し、なんと織田軍を突如背後から急襲します。

もちろんそうとは知らない信長は、見事に浅井・朝倉軍に挟み撃ちにあい、命からがら京都へ逃げ戻ることとなりました。

この出来事の裏側には、織田家との同盟に反対していた一部の浅井家臣たちが朝倉派の久政を担ぎ出し、長政へ織田軍への進撃を提案したといわれているようです。

これで完全に織田家との関係は断絶となった浅井家ですが、同年に行われた「姉川の戦い」、その後の「志賀の陣」と長い戦いを繰り広げていくことになります。

1572年、武田信玄が出陣中に病没したことにより、第2次信長包囲網の重要な一角が崩壊。
武田軍侵攻の脅威がなくなってウキウキの信長は、3万の軍勢を率いて北近江へ攻め寄せました。

朝倉義景も2万の援軍でかけつけますが、北近江の各城が織田軍に落とされていたことや、浅井家中で寝返りが相次いだことで救援不可能と判断し早々に撤退を開始します。

しかし、逆にその行動を予測した信長が陣頭で指揮した織田軍の猛烈な追撃戦を開始。ボッコボコにされた朝倉軍は刀根坂でほぼ壊滅しました。

僅かな近習のみで一乗谷へ一時退いた義景ですが、その後身内である朝倉景鏡の裏切りにより自害。
これにより越前一乗谷で栄華を極めた朝倉氏は11代で滅亡しました。

そうなると、残るは北近江の浅井氏のみ。
援軍なく孤立した小谷城に籠り続けるも、越前より取って返した織田の大軍に囲まれ、既に勝敗は決していました。

もう完全に目の前に陣が築かれていて、その近さにマジで驚きます。
このプレッシャーは相当なものだったでしょうね。

↓本丸付近から見た、織田軍が陣を敷いた虎御前山です。めっちゃ近いでしょ!

再三にわたる織田側からの降伏勧告を断り続けた長政ですが、最後は清水谷の急斜面から攻め上がった羽柴秀吉軍により京極丸が陥落し、完全に本丸と小丸とを繋ぐ中心を分断されます。
この清水谷、実際に観るとわかりますがその傾斜角が凄まじい。
それをまさか登ってくるとは思ってなかったんでしょうね。

そしてその日の内に小丸が落ち、久政パパはそこで自害。
長政は、お市の方と3人の娘を信長に引き渡した後、小谷城内の赤尾屋敷で自害したと伝えられています。

浅井氏の滅亡とともに、信長が攻めあぐねた堅固な小谷城はついに落城しました。

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