今回は、現存する五重六階の天守の中で日本最古の国宝の城、松本城をご紹介します。

この松本城の魅力は、何といっても黒い天主の奥に観える冠雪した白いアルプスの山々とのコントラストでしょう。
すごい綺麗!出会った瞬間そう思わされる、魅力的なお城です。

そんな美しさが際立つ松本城ですが、歴史の中に黒い天守を思わせるような深い闇も併せ持っている城なんです。

今回も少し長くなりますが、お付き合いください。

松本城の前身は、深志城と呼ばれていました。

松本の地は、底平地でいくつもの川が合流し湧水も豊かだったことで、古くから「深志」または「深瀬」と呼ばれていたんです。
その後、上田から国府が移ってくると、信濃国の中心となり「府中」と呼ばれるようになりました。

そして、この信濃国の守護に任ぜられたのが小笠原貞宗。
貞宗かは府中に入ると、現在の松本城のやや南方に居館を築きました。
これが松本城の前身といわれる深志城のはじまりだったと考えられています。

その後小笠原氏は、深志城のさらにその南方に地に林城を築城します。
そしてそこを居館としたため、深志城は林城の支城として機能することになりました。
うん。ここまでは、室町時代前期のお話。

では、戦国時代と呼ばれる室町中期以降ですが、1548年に甲斐の武田信玄が信濃に進出をはじめ、当時の信濃守護だった小笠原長時を追放します。
もうオラオラ系の信玄がイケイケの時代ですね。

信玄は深志城に城代を置き、城を速攻で拡張します。東信濃と北信濃への進出拠点としたかったんですね。これが後に、上杉家との泥沼の戦いとなる川中島の戦いに繋がっていくわけです。

しかし信玄は領国拡大のための西上作戦途中に発病し、帰還中の信濃国内で亡くなります。
信玄の死後、武田家の家督は四男の勝頼が継ぎますが、長篠の戦いの敗戦をきっかけに衰退し武田家が滅亡します。
深志城は織田軍に明け渡された後、武田家を裏切り信長に所領安堵された木曽義昌が城主となります。

この木曽義昌は、信玄の娘婿で武田家の親族衆だっただけに、いろんな事情があるにせよちょっと複雑な心境…😓

戦国の世は生き残るのがすべてだから、その立場に立ってみないとわからないこともあるか…。
その後信濃の勢力図は大きく変化し、城主も入れ替っていきます。

所領を安堵され深志城主となった木曽義昌ですが、安心できたのも束の間、織田信長が本能寺で横死をとげると状況が一変します。

周辺勢力が拮抗する位置にあった信濃国はまさに大混乱💦

まず越後の上杉景勝が動き北信濃に侵入。
深志城を攻撃すると、城主についていた木曽義昌を追い出し、元信濃国の守護だった小笠原長時の弟の貞種を城主として置きます。

しかし、それに不満を募らせる長時の嫡男小笠原貞慶は、徳川家康の支援を得て旧臣を集め、叔父の貞種が篭る深志城を攻めたてました。
まさに戦国時代あるある。ついに小笠原家の親族間でドロドロの争いが始まります。

防戦一方だった貞種は越後へ逃亡。
貞慶は、見事父の跡目を勝ち取り旧領を回復し、これを機に城の名前も「松本城」と改名します。

1590年、豊臣秀吉が総勢20万という大軍を動員したといわれる小田原征伐が行われます。
迎え撃つ北条氏は数か月に及ぶ籠城戦を繰り広げますが、その後降伏し滅亡。
徳川家康が北条氏が収めていた関東へ移され、その配下となっていた小笠原貞慶の子の秀政もそれに合わせて下総国の古河へ移りました。

そして入れ替わりに松本城へ入城したのが、豊臣秀吉に属していた石川数正で、10万石を得ての入封でした。

この数正とその子康長が二代に渡って、松本城の天守をはじめ城郭・城下町の大規模な整備を行われます。

この石川数正という人物、実は、元は徳川家康の重臣という立場の武将でした。
家康の人質時代もそれに従い、家康が独立してからは岡崎城の城代を任されるほどの重臣中の重臣。
家康が三河で独立を果たした際、今川家に残していた家康の正妻の築山殿と長男の信康を救出したのがこの数正なんです。

それが何があったのか謎ですが、1585年に一族を連れて秀吉のいる大坂へ出奔したんです。
その後、秀吉の配下となり、和泉国で10万石を与えられていました。

こうなると出奔元の徳川家ではもう大騒ぎですよね。
家中の秘密が漏洩に繋がるのを恐れ、三河以来の軍制もこの時にすべて武田流に改めたといわれています。

石川数正親子が松本へ入封した2年後、数正は「文禄の役」の出兵中の滞在先で亡くなります。

跡を継い康長は、数正の意思も継ぎ、既に取り掛かっていた松本城天守の建築を急ピッチで進めていきました。

しかし、徳川幕府の支配体制が確立するとその状況も一変していきます。

徳川家康に抜擢され、江戸幕府の代官頭として大きな権力を奮った大久保長安が1613年に死去したことがその引き金となりました。

長安の管理する代官所などで不正が発覚し、これが大事件に発展したんです。
世にいう「大久保長安事件」です。

幕府の厳しい調査が入り、結果的に長安らが権力を利用して私腹を肥やしていたとして、長安の息子7人は切腹の沙汰。

そして、なんの関係もないと思われる石川家にもここにきてその余波が…😱
実は、長安の嫡子である大久保藤十郎に康長は娘を嫁がせていたんです。
確かにそれはやばい予感ありありです…。

これにより、長安と共謀し知行を隠匿した疑いをかけられ、速攻で改易となりました。
かなり厳しい処分ですよね💦

これは一説では、徳川家内部での大久保忠隣と本多正信との権力闘争の影響ともいわれ、正信が長安の死後に家康へ讒訴したことで大事件に発展したといわれています。

どちらにしても、そのとばっちりを理由に、徳川家を裏切り出奔した石川家に対する遺恨を晴らすための処置のような気がするのは私だけでしょうか.

石川家が改易となった後、再び小笠原秀政が松本城主に返り咲きます。

故郷に戻り城主となった喜びは大きかったと思いますが、その後の大坂夏の陣の天王寺口の戦いで大坂方の猛攻を受け、既に家督を譲っていた子の忠脩がまさかの戦死してしまいます。

秀政自身も瀕死の重傷を負って戦場を離脱後、間もなく戦傷により死去しました。
大坂の陣の戦いの激しさがこのことからもよくわかりますね。
恐るべき戦国…。何が起こるかわからない…。

その跡を継いだのは、秀政の次男忠真です。
忠真は後に播磨三木明石10万石を経て、豊前小倉15万石と順調に出世していきました。

その後の松本城はというと、松平(戸田)康長が1617年に城主となります。

この康長、家康の義理の妹を妻とし、実直で穏やかな性格だったことから、家康・秀忠・家光の3代の他、伊達政宗からも厚い信任を受けた人物だったようです。

康長の死後は、越前松平氏、堀田氏、水野氏を経て、松平康長にはじまる戸田松平家が代々の居城としました。

しかし、残念なことに1727年に松本城の本丸御殿が焼失。
以後、藩政は本丸御殿でなく二の丸で執務がとられるようになりました。

松本城最後の城主は戸田光則。
1869年に信濃国の諸藩の先頭を切って版籍奉還の申し出を行い、これが認められて、藩主は松本藩知事となりました。

最後に、松本城にも様々な伝説や逸話が残っていますが、その中の闇歴史、「加助騒動(享貞騒動)」についてご紹介したいと思います。

加助騒動とは、1686年に多田加助という元庄屋を筆頭に、松本藩で起こった百姓一揆です。

当時の城主は、信濃松本藩の三代目城主、水野忠直。

安曇野では例年に比べて不作だったにも関わらず、松本藩では年貢を3斗から3.5斗への引き上げを決定します。
これは、周辺の藩では2.5斗が基準だったので、およそ1.4倍の重税😱
めっちゃひどい!

さらにノギの除去というかなり手間のかかる作業も加えて課せられたため、重労働この上なし。

ついに安曇郡の元庄屋、多田加助を中心とした同士11名が密談を重ね、直接松本郡奉行に1俵あたり2斗5升への減免等を求める5か条の訴状を提出することになります。

しかし、この計画が藩内に伝わり、約1万ともいわれる百姓が松本城周辺へ押し寄せる大騒ぎとなりました。

びびった城代家老は、要求をのむことを約束し、その場を引き取らせたものの、藩主の裁可を得た上で約束を反故にし、さらに一揆の関係者を次々と捕縛。

この酷い仕打ちにより、最終的には、8名が磔、20名が獄門の極刑に処されたといわれています。

多田加助は磔にされる際、刑場に集まって涙する領民に向かい、「今後年貢は5分摺2斗5升だ」と絶叫しつつ刑死したといわれ、加助が松本城天守閣を睨んだ瞬間、大きく傾いたという伝説かまで残っています。

もしや、これは覇王色の覇気…⁉︎

騒動の後、2斗5升までの年貢の減免は認められませんでしたが、元通りの3斗に引き下げられ、ノギ取り作業も免除されることになったようです。

松本城は、武士の生活だけでなく、加助たち領民の想いや行動の歴史もずっと見続けていたんですね。

green-ink This entry was posted in. 未分類 黒い姿と北アルプスの借景が美しい松本城.

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