高槻城の二ノ丸跡発掘調査現場で高山右近が城主だった時代の障子堀が発見された!
そんなニュースが突然目に飛び込んできました。
情報元は、Instagramのフォロワーさんから。

いろんな新聞記事にもそのニュースは掲載されており、現地説明会は2月2日の午前中に開催されるとのこと。
これは行かなければ!咄嗟にそう思い、ドキドキしながら手帳のスケジュールを確認。
セーフ!午後からは動かせない予定が入っていたものの、午前中はフリー。
速攻、妻に午前中の時間をもらうための交渉を行い、なんとか許しを得て参加できることになりました。

当日は10時から説明会が開始されるようで、少し早めに出発したため。
9時30分には現地に到着できたものの、既に幾重にも行列ができていました。
現地説明会初参加の私にとっては、こんなに人が集まるものだとは知らず驚きを隠せませんでした。

説明会は行列ができているせいか、少し早めにスタートしてくださいました。
現場に入ると、大きな窪みの中に確かに障子堀のような跡がしっかりと確認できました。
でも、北条氏の障子堀のイメージが強かったためか、穴のいびつさに若干違和感を覚えました。
「なんでこんな不規則な形にしたんだろう?」そんな疑問を持っていましたが、そのあとの係員の方の詳しい説明ですぐに解消できました。

障子堀の上には当時は少し水が張られていて、穴の中には泥が入れられていたようです。
もし、敵が堀を下って攻めてきた時には、その泥に足がとられがっつり機動力が失われている間に上から弓矢や鉄砲で攻撃を加えるというイメージ。

なるほど!その泥が障子の穴を隠しているので、規則的なものよりも不規則な形の方が穴の位置を敵に読まれにくいからか・・・。

堀の中には、堀を埋める際にこのような墨書きも一緒に投げ込まれていたようです。
元和3年と記載されており、堀の埋めなおしがこの時期に行われたという貴重な資料とのこと。責任者は、鶴田左平さん。

江戸時代の井戸跡もこのように発掘されてました。

今回は二ノ丸の発掘調査でしたが、この堀の南側にあたる本丸部分に該当する場所は現在は高校になっています。
この部分の発掘調査が行われたら、もっと大きな発見があるかもしれない。

江戸時代の建物を復元するとこんな感じだったようです。
高山右近時代の高槻城は、これより一回り規模的には小さかったようです。

インターネットで調べてみると、大阪城の大手門近くの堀からも同じような障子堀が出てきたという記述が。
西日本のお城には、もしかしたらもっと多くの障子堀が発見されるかも。

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