大坂城は豊臣秀吉が1583年に築城に取り掛かり、翌年に天守閣が完成しました。
その後、本丸、二ノ丸、三ノ丸や櫓などを構築し数年後には元々この地にあった石山本願寺をはるかに上回る城郭につくりあげています。

大坂城の工事に動員された労働者は、3〜10万人、堺の港は各地から石垣用の石を搬入する船で、1日200〜1,000艘も出入りしたといわれています。
そして惜しげもなく使った金銀は、瓦にも貼って飾りたてられました。
すごく豪華で壮大なお城だったんですね。

写真①

写真①は、現在調査中の豊臣時代の天守跡地です。
大阪城天守は、大坂夏の陣図屏風に描かれた外観を基に再建されています。
ただ、現在残る石垣や水堀、現存の建造物はすべて徳川時代のものであり、秀吉時代の大坂城は地下に埋もれ、その実態はほとんど明らかにされていません。
それを大坂夏の陣から400年を機に、秀吉が築いた初代大坂城の石垣を掘り起こし公開しようとする「豊臣石垣公開プロジェクト」が発足しました。
歴史ロマンあふれるこのプロジェクトが成功すれば、豊臣時代の本物の石垣を見ることができるので楽しみです。

大坂城は「大坂夏の陣」で炎上し、豊臣氏も大坂城とともに滅亡しました。
豊臣氏を滅ぼした家康は、1615年、当時伊勢亀山城主だった外孫の松平忠明を大坂城主に任命します。
忠明は、埋めたてられていた堀を掘りおこし、荒廃した城内を整理して4年後に大和郡山に移りました。
その後大坂城は幕府直轄地として城代が置かれるようになり、再建へと進んでいきます。

幕府の直轄地となった大坂城の初代城代には、内藤信政が赴任しました。
工事には多くの大名が普請に駆り出されたといわれています。
その普請奉行に抜擢されたのが、築城の名手として名高い藤堂高虎です。
工事は1620年から1629年に至るまで続けられ、近年の発掘調査では秀吉時代の大坂城の敷地の上に10m程の土を積み上げられて縄張りされていたことがわかっています。
大坂城再築工事が完成した時、将軍は秀忠から家光へと代わり、動員された大名は64家にのぼったといわれています。

写真②

写真②は大坂城山里曲輪跡です。当時の大坂城はこの約7m地下になります。
大坂夏の陣で大坂城落城の際、この山里丸の朱三櫓の中で豊臣秀頼、淀殿や30人ともいわれる側近の武士や女中たちと共に果てたといわれています。焼け跡からは多くの焼死体が発見されましたが、その中に首のない遺体が。1980年、そこから少し離れた豊臣時代の大坂城二の丸京橋口前面の郭があった地層から丁寧に埋葬された20〜25歳くらいの成人男性の頭蓋骨が発見されました。副葬品からもかなり高い身分を持った人物だということがわかり、その隣には当時では珍しい大型のアラブ系の馬も埋葬されていました。
このことから、この頭蓋骨は豊臣秀頼のものではないかと考えられ、豊臣家ゆかりの清涼寺に丁寧に埋葬されているようです。

徳川時代の大坂城は、豊臣時代の大坂城に見劣りしてはならないという理由で、豊臣時代の本丸を埋め立て徳川時代の本丸を造り、曲輪の配置もすべて造り替えました。
石垣の高さも豊臣時代の倍にしたことで、使われた石の数は40万個といわれています。
天守閣は外観五層六階の総塗籠白壁で高さ58.5mありましたが、1665年正月落雷により全焼。以後大坂城には天守閣は再建されませんでした。
その後1868年の戊辰戦争により炎上し、徳川時代大坂城は落城しました。
現在ある天守は、市民の寄付により再建されたもので、徳川時代の大坂城天守台の上に豊臣時代の大坂城天守閣を模して建築されました。
これにより、豊臣、徳川時代のコラボレーションされたスーパー大阪城が誕生しました。

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