標高199mの安土山に、織田信長が築城の工事を起こしたのは、1576年の正月です。丹羽長秀を普請奉行に任命し安土山の工事を進めました。
「安土」という地名は、山に安土寺があったことから、この頃に命名されたといわれています。

安土城は築城のため近隣の国や畿内などの諸侍が動員されたほか、京都、奈良、堺の大工、諸職人も召し寄せられました。
また、城内の石垣を築くのに観音寺山、長命寺山、長光寺山などから石を千、二千、三千ずつ安土山に運んだことが、「信長公記」に記されています。ほんとに半端ない数の石垣が今も残っているのが驚きです。

写真①

写真①は、〜伝 羽柴秀吉邸跡〜です。
屋敷は大手道に面していて、上下2段に別れた郭で構成されています。1枚目の写真の下段郭には壮大な櫓門が建っていたようです。1階を門、2階を渡櫓とする櫓門は、近世の城郭に多く見られるものですが、秀吉邸の櫓門はその最古の例として貴重です。
ちなみに写真は南側から屋敷跡を撮影した写真です。

写真②

写真②は〜伝 前田利家邸跡〜です。
後の豊臣政権5大老の1人で、加賀藩主前田氏の祖、前田利家の伝屋敷跡です。
前回の投稿で紹介した「伝 羽柴秀吉邸跡」の大手道を挟んだ向かいにあり、大手道正面の守りを固める重要な位置を占めています。
最下段の郭にあった厩は、江戸時代初期に書かれた有名な大工技術書「匠明」に載っている「三間厩之図」と平面が一致する貴重な遺構です。
写真はその厩跡から北側の郭を撮影したものです。
伝羽柴秀吉邸とほぼ共通した建物で構成されていますが、その配置には大きな相違が見られ面白いです。

写真③

写真③は〜武井夕庵邸跡〜です。
武井夕庵(助直)は元は美濃の斎藤家3代に仕えた右筆です。斎藤氏が滅んだ後は、織田信長に仕え右筆および側近官僚となり客の取次や京都の行政官の一員として活動しました。
信長からの信頼は厚かったとみられ、安土城内の夕庵邸は、森成利、津田信澄、織田信忠に次ぐ場所に建設されています。
茶人としても活躍し、安土城での許し茶湯を始める許可者の総覧の茶会では織田信忠に次いでいたといわれています。以外と知られていない人物ですが、与えられた屋敷の跡地を見ると、すごく重用されていたのがわかります。

写真④

写真④は〜伝 織田信忠邸跡〜です。
織田信忠は織田信長の長男です。
幼名は奇妙丸。
信長の後継者として幾多の戦場で戦功を挙げたほか、甲州征伐では総大将として武田領へ侵攻。信長の本隊が武田領に入る前に、武田勝頼・信勝父子を天目山の戦いにて自害に追い込み、武田氏を滅亡させました。
将来を期待されていた信忠ですが、その後本能寺の変に巻き込まれます。当時、妙覚寺に宿泊していましたが、皇太子の居宅である二条新御所へ移動。皇太子誠仁親王や女衆を脱出させるとそのまま篭城し善戦しますが、衆寡敵せずに自刃。父信長同様に、首は明智方に発見されることはなかったといいます。

写真⑤

写真⑤は〜織田信澄邸跡〜です。
織田信澄は、信長の実弟信行の息子です。信行が信長に暗殺された後、柴田勝家の許で養育されました。
その後、織田政権下で活躍し、破格の待遇を受けていた信澄ですが、本能寺の変直後、光秀の娘婿であった事が災いし、疑心暗鬼に囚われた織田信孝と丹羽長秀によって討ち取られました。謀反人の汚名を着せられたまま、堺の町外れに梟首にされたということです。
安土城屋敷の隣には、森成利の屋敷が並んで建てられていました。

写真⑥

写真⑥は、大手道沿の伝徳川家康邸跡にたつ総見寺仮本堂です。昭和4年織田信長350回忌に宮内庁より京都御所の一部を賜り改築したものです。
城郭遺構は安土山の全体に分布していて、当時の建築物では仁王門と三重塔が現在城山の中腹にある摠見寺の境内跡に残っています。

写真⑦

写真⑦は、安土城中枢部への主要な入口のひとつ黒金門跡です。
発掘調査で黒金門も天守と一緒に火災にあったことがわかっています。
多量に焼けた瓦の中には、菊紋、桐紋などの金箔瓦も含まれていたようです。
この黒金門より先は、信長が選ばれた側近達と日常生活を送っていた場所だと考えると、なんだか少し感慨深いものがあります。

写真⑧

ついに到着。写真⑧は安土城の天守台跡です。
安土城の天守は完成した3年後の1582年6月に焼失しました。記録から地上6階地下1階の当時としては傑出した高層の大建築でした。
山麓に御殿を建て、そこで生活するのが普通だった時代ですが、信長は天守で生活をしていた非常に珍しい武将でした。
眺望もよく内部は狩野永徳が描いた障壁画も飾られていたことから、居住空間としても最高だったんでしょうね。

高層の木造建築を建てる場合、中央に心柱を立てるのが多くの日本建築の特徴です。
しかし、安土城天主の礎石は中央部の1つだけがありません。
発掘調査では、中央に礎石が抜けた跡はないことが確認され、またそこに空いていた穴からは、焼け落ちた天主の一部と思われる炭とともに、壺のかけらのような破片がいくつも出土しました。
何故でしょう?発掘時の推測では、この穴の上にはかつて仏教の宝塔があり、穴には舎利容器である壺が入っていたものと考えられています。

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