山陰の名城といわれた米子城。
個人的にこの天守からの眺望が好きで、ちょくちょく登城しては天守台でお昼ご飯のおにぎりを食べてました。
今回は、そんな米子城の魅力を知っていただきたく、ご紹介したいと思います。
米子城は、現在の鳥取県米子市の鳥取大学附属病院南側にある飯山と湊山に城跡として残っています。
現在の本丸跡は、江戸期に湊山につくられたもので、戦国期につくられた部分は出丸として機能していました。
この城は、1467年から1487年に山名宗之によって、飯山に砦として築かれたのがはじまりといわれています。
戦国期には、尼子氏と毛利氏の間で奪い合いとなりますが、毛利氏の尼子氏攻略に伴い、この城は山名氏の支配となります。
しかし1569年、尼子氏再興の旗揚げをした山中幸盛(鹿之助)らが米子城主の山名之玄と手を結ぶと、毛利のオラオラ系次男、吉川春元によって攻められ落城。
城主の山名之玄はここで自害。
吉川元春は、配下の古曳吉種を米子城主として置きます。
時を経て1588年、西伯耆の領主となり月山富田城を居城としていた吉川広家は、古曳吉種に命じ米子城の築城を開始します。
しかし文禄の役に従軍することとなり、吉種も共に渡海し戦いますが、朝鮮の地で討ち死してしまいました。
広家はなんとか無事に日本に戻ることができたため、凱旋後には吉種に代わり再び築城工事を再開します。
しかしそんな広家も、1600年の関ヶ原の戦いに西軍として参戦したことにより、米子城の完成をみることなく岩国に国替えとなりました。
その後、駿河の中村一忠に伯耆18万石が与えられ、米子城の城主となります。
この時、一忠は12歳。
今でいうと小学6年生。まだまだ藩政を仕切ることなどできない年齢です。
これが後に「横田騒動」と呼ばれる、幕府を巻き込む大騒動を起こすことになるなんて…。
では、この騒動、どんなものだったのかをご紹介します。
〜米子藩の横田騒動〜
中村一氏の跡を継いだ一忠は、当時12歳と幼少でした。
このため、藩政を担当したのは叔父の中村一栄と、家康から後見役として派遣された横田村詮。
村詮は、幼少の一忠のもとで手腕を発揮し、米子城築城を完成させるとともに、城下町の整備・建設を行い、米子の発展の礎を築きました。
しかし、一忠の側近である安井清一郎・天野宗杷らと対立するようになり、1603年11月14日、安井・天野らに唆された一忠は村詮をあっさり殺害してしまいます。
村詮の一族は、それはもう驚き仰天!「何すんねん!」ってことで、主からの仕打ちに備え飯山に立て篭もります。
自力ではどうしようもなくなった一忠は、隣国出雲の堀尾吉晴の助勢を得てなんとかこれを鎮圧。
事件の報告をうけた大御所家康様は、自らが派遣した横田村詮の殺害に大激怒。
首謀者である安井・天野の行いを幕府への反逆とみなし、吟味も無く即刻切腹としました。
ただ、城主の一忠は幼少だったためか、品川で謹慎に収め、お構いなし。
横田村詮暗殺の本当のところの理由はわかりませんが、宇和島の伊達藩でも同じようなことを聞いたことが…。
さて、その後の中村家ですが、残念ながら1609年に一忠が急死したことにより、中村氏は家系断絶のため改易とされました。
死因は、青梅を食べたことによるものといわれています。
でも、青梅って確かに毒があるとは聞きますが、人が食べて危険だといわれている量は100個近く。
まさか100個も食べてはないと思いますが、本当の理由はどこにあったんでしょう。
怖い…。
中村氏の改易後の翌年には、加藤光泰の次男、貞泰が伯耆国内で2郡6万石を領して藩主となります。
中村氏旧領の残り11万5000石は、八橋藩市橋氏・黒坂藩関氏・天領などに分割統治されてしまいました。
しかも数年後に伊予大洲に転封。
その後、1617年に池田光政が因伯32万石の領主として鳥取城に入り、米子城は家老職を務めていた池田由之にあずけられました。
ところが翌年に由之急死😵
しかも理由は、怨みを持った小姓による刺殺とのこと…。
何を恨みを持たれたのか知りたいけど、米子城主って思いがけない理由で急死してますね。
由之の後は、その子由成がこれを継ぎます。
1632年国替えによって池田光仲が3歳で鳥取藩主に。
将軍家光は荒尾成利ら3名に幼君の補佐を命じ、成利に米子城を与えました。
鳥取城でたくましく育った光仲は、果敢に藩政を行い、成利の専横を殺いで藩主親政を確立します。
こんな感じだったので、一時その仲は険悪になったそうですが、大事には至らずその後230年は荒尾家が米子に在城。
ほんと、良かった良かった。
明治維新後は、米子城はわずか37円で古物商の山本新助に買い取られ解体されました。に。
明治初期の1円の価値が約3〜4万円のようですので、現在価値で高くても約150万円ほど。維持費を考えたとしても結構安いよね😱
米子城は、私が今まで行ったお城の中でも天守からの眺望は屈指の絶景ポイントです。
東南の方角には「伯耆富士」と呼ばれる大山、北には島根半島・中海が一望でき、最高の気分に浸れます。
米子駅からも比較的近いですので、ぜひ一度は足を運んでみてください。