滋賀県彦根市にあり、1952年に国宝に指定されました。
彦根城以外の国宝天守は、現在、姫路・松本・犬山・松江だけです。
関ヶ原の戦いの戦功により、井伊直政が18万石で佐和山城に封じられました。
直政は、当時磯山に城を移そうとつとめましたが、1607年に病没。
その重臣たちが直政の遺志を引き継ぎ検討を重ねた結果、徳川家康の許しを得て1608年に標高136mの金亀山に築城を開始しました。
この築城工事は、竣工した暁には大坂の豊臣や西国大名に備える戦略的要素を強く帯びるため、幕府は全国の7カ国十二大名に協力を命じました。
これにより20年以上の歳月を要し、1622年に完成。1625年には本丸天守も竣工しました。
その年の後半に井伊家の居城は佐和山城から彦根城に移りました。

彦根城は石垣などの遺構から、大きく分けて二度の普請により成立しています。
一度目の普請を「慶長普請」、二度目の普請を「元和普請」として分けられます。
「慶長普請」は公儀普請ですが、「元和普請」は井伊家単独での普請です。
いずれも石垣に特徴があり、第1期工事となる慶長普請では、石材の種類が複数あり、自然石と粗割石が使われ自然地形に順応した築城に対し、元和普請では使われた石材は一種で、粗割石と加工石で構成されています。そして、特に平地部では直線的・方形的な構造を持っているのが特徴です。

写真① 天秤櫓

彦根城の天秤櫓は国の重要文化財に指定されています。(写真①)

この櫓は、大手門と表門の両方の坂道を登りきった合流地点となる要の位置に築かれています。
写真①の中央にある廊下橋(戦時には切り落とし可能な橋)に接続する櫓の中央部分に、先程の二つの坂道に面している多聞櫓を二重櫓とすることで、左右対称となっていることが「天秤櫓」の名前の由来です。
でも、詳しく見ると左右の櫓の方向は異なってますし、格子窓の数も左右違うので、実は対称ではないんです。

この櫓は、長浜城の大手門を移築したものと伝えられていますが、まだ断定はできていません。
建物の土台となる石垣は、右側(写真②)が築城当時に越前の石工たちが築いたとされる部分(打込みハギ積み)。左側が江戸時代後期の改修によって築かれた落とし積みという積み方の石垣になっています。

写真② 天秤櫓右側

太鼓門及び続櫓(写真③)と馬屋(写真④)はいずれも国重要文化財に指定されています。
太鼓門及び続櫓ですが、天守のある本丸の表口を固める櫓門で城内の合図のための太鼓を置いていたことから名付けられたといわれています。建物の背面が開放されていて高欄つきの廊下となっています。櫓ではすごく稀な構造となっています。

写真③ 太鼓門及び続櫓

馬屋は、藩主などの馬が21頭繋がれていたようです。
城内に残る馬屋は、全国にも彦根城にしかない珍しい建物です。

写真④ 馬屋

彦根城天守ですが、関ヶ原の前哨戦で耐え抜いた大津城から移築されたといわれ、1607年に完成しました。
政治的象徴としての外観だけでなく、城本来の機能である軍事面でも優れています。

外観の特徴としては、丸みを帯びた唐破風や切妻破風を駆使した変化のある屋根が挙げられます。これは、他の現存天守にはない美しさがあります。

井伊家は明治維新に至るまで彦根藩主として領民に慕われました。
代々の中でも13代直弼が有名で1853年4月に大老職に就任し、早々に日米修好通商条約を結び尊攘派を激昂させました。
それらの不穏な動きに対し機先を制すべく断行した安政の大獄は有名です。
しかし、1860年3月3日に桜田門外で水戸浪士らの襲撃を受け首をあげられました。
彦根藩最後の藩主は、直弼の次男である井伊直憲です。

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